第197回:日本の伝統的な美しさと没個性
日本の美しさは、ガイコクジンには分からないワビ、サビにあると、耳にタコができるほど聞かされました。相手が私のような外人だと、とたんに日本文化を背負って立ち、ワビ、サビ論を(特にお酒が入ったときなどに)得々と述べる人がいて、げんなりさせられることがままあります。
京都のお寺を回っていると、長い年月をお線香の煙に燻され、黒とも灰色とも茶色ともつかない色合いの仏像に出会い、小さいけれど小宇宙を形づくっている庭と一体になった建物の中に身を置くと、なるほど、これがワビとかサビとか言うものか……と少しはそんな境地に触れたつもりになります。
ですが、木彫りの仏像の大半はもともと金ぴかに燦然と輝く派手派手しいものだったようですね。建物も極彩色に彩られ、今で言うならサイケデリックグリーンにホットレッド、おまけに金箔を張るといった念の入れようで、建造当時はそれはそれはワビもサビも、カケラもない建築だったようです。それが年代とともに剥がれ落ち、独特の美しさを生むようになったのでしょう。
元々、日本人は陽気で派手なことが好きだったのではないかと思います。お祭りのお神輿といい、歌舞伎の衣装といい、舞妓さんの着物といい、お正月の飾りといい、ともかく目立つギンギンラギンをよしとしていたように見受けられます。ここで日本を代表するテレビ番組、紅白歌合戦出場者の衣装や、パチンコ屋さんのネオンサインみたいなバラエティーショーの飾りつけも、悪趣味なハデハデ、ゴテゴテに徹しているのは、日本人のド派手好みと関係があると指摘するのは見当違いではない……と思うのです。
日本で成人の日に出会いました。珍しく着物を着ている若い女性がたくさん行き来しているのを駅で見かけ、そう言えば、今日は成人の日だったと気づきました。
成人式に出向く今年二十歳になる男性の方は、卸し立ての背広姿で、やせっぽっちで髪を今流にグチャグチャにしたファッションでした。日本の若者に背広は全く似合わないのに比べ、女性の振袖は、ただ派手で目立つことだけに狙いを定めた伝統の力でしょうか、男どもを圧倒していました。
振袖姿の女性と連れ立っているボーイフレンドが吹けば飛ぶように、軽くちっぽけな存在に見えてしまうのです。振袖や訪問着と背広では、投資した金額に天と地の差があるのは知っていますが、新しい背広に着られている格好の陰の薄い日本の青年を見て、日本の将来に不安を抱くのは私だけかしら。
それにしても、世界にたくさんある民族衣装のなかで、日本の着物が持つ存在感は圧倒的です。数年前、日本のアメリカ大使館で開かれたレセプション、パーティーに出たとき(たった一度しかそんな華やかな経験はありませんが)、2、3百人いた招待客の中に2、3人しかいない着物姿の小柄な中年の日本女性が会場全体を圧倒していたと言ってよいくらい、強い印象を皆に与えていました。地味な着物でしたが、そこには伝統の持つ輝きと力強い安定感があるとつくづく感心させられました。
成人式へ向かう同級生同士でしょうか、10人ほどの振袖姿の娘さんが駅前で記念撮影をしていました。もちろん、皆指でVサインをし、カメラを構えるのはお兄さんたちの役目です。ところが、駅で一人ひとりはハットするほど派手で美しいと思っていた振袖姿が5人、10人と集まると、互いの美しさを消し合うのでしょうか、まるで秋葉原の電気屋さん街か夜の新宿の飲み屋街のように、ただゴテゴテ飾っただけの集団になってしまったのです。
よく見ると、振袖自体はそれぞれ意匠をこらした柄で独立した美しさを持っているのですが、着ている女性たちの化粧、前髪半分を顔の前に垂らした髪型、白いショールなど相似形といってよいくらい似ているのです。表情も同じで、彼女たちが5つ子、8つ子と言われたなら、そのまま信じてしまいそうなくらい同じなのです。
ファッションには全く縁のない生活をしてきた私ですが、一言、言わせて貰えば"個性のない美しさというものは存在しない"と思います。集団での統制美は、お隣の北朝鮮のパレードやスタジアムの人文字で充分です。振袖で姿での集団パレードはむしろ醜悪です。大枚を叩いたのでしょうが、せっかくの振袖もこうして集まると制服になってしまい、個性が潰されてしまうようです。
京都のお寺の落ち着いた美しさも、金箔、極彩色のペンキが剥がれて、長い年月を経てやっと到達したのですから、今チャラチャラした振袖、訪問着を着ていた娘さんたちも、歳を経て、何度か脱皮し、紬(つむぎ)や大島、絣(かすり)を上手に着こなし、立ち振る舞いも決まってくるのかもしれませんね。
成人式を迎えた日本の娘さん、いつの日か貴女にだけ合った服、貴女でなければ着こなせない着物を見つけ、伝統美が持つ存在感を表現してください。
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