今日の旅は久しぶりに都内である。そして連れがいる。仕事仲間のH君である。Hはイニシャルであって変態という意味ではない。当人は私より少々年下で、私よりかなり大食いの好ましい青年である。仕事の合間に私が次の旅の話をして、沿線に焼肉食べ放題の店があると言ったら付いてきた。先日が誕生日だったと言うから、こちらとしてはご馳走しなくてはいけない気分である。でも食べ放題だから安心だ。
日暮里駅には久しぶりに訪れた。食い道楽の仲間たちと駄菓子問屋を巡り、羽二重団子を食し、名前は忘れたが有名パティシエの店でケーキを買って墓場で食べて、駅前の馬賊という中華屋で刀削麺を食べて解散した。あれからもう5年は経っていると思う。その日暮里駅は現在大改装中である。山手線のホームの案内によると、日暮里舎人ライナーは北口とのことである。階段で跨線橋を上がると細い通路で、窓から三角屋根の橋上駅舎が見えた。あの時、待ち合わせをした場所だった。
日暮里駅の修悦体。
北口には小さな改札口があったが、そこは京成電車の乗り換え口だった。京成日暮里駅も改装工事中である。成田新線の開業に備えて下り線を高架化し、スカイライナー専用ホームを造るそうだ。JRの北口はどこかと振り返れば大きなコンコースが口を開けている。通路の要所に道案内の表記があって、実はこれが日暮里駅の名物『修悦体』である。ガムテープやビニールテープを縦横に貼り、カッターで削って文字を作ってある。独特な癖のある文字で、しかし妙に読みやすい。工事現場の警備員、佐藤修悦氏が作り、その名を取って修悦体と名付けられた。
この文字の発祥は新宿駅の改装工事だった。埼京線と湘南新宿ラインの配線を入れ替え、甲州街道を掛け替えるという大規模なものだった。工事の進捗によって通路が変化する。そのたびに乗客を誘導する必要があり、現場の壁にテープで文字と矢印を書いたそうだ。その文字の面白さに注目した人々がプログに掲載するなどして話題となり、ネットのクチコミで広まった。テレビでも何度か紹介され、個展も開催され、CDのジャケットにも起用された。職人の技が芸術になった。しかし、案内表記は用が済めば要らなくなる。工事の終了と共に修悦体は撤去された。春の桜や夏の世の花火に似た儚さも人々を惹き付けたのではないか。現場にはなくなったけれど、インターネットの空間で写真が残った。
英文字表記もあった。国際空港からのお客に配慮したらしい。
その伝説のアート、修悦体が再び作られ始めた。芸術として復活したというような大仰なことではない。佐藤修悦氏が次の現場に派遣されただけだ。それが日暮里駅だった。そんな話をH氏に聞かせつつ、ひとつひとつの案内板を眺め、写真を撮った。文字単体では解りにくくても、単語を形成すると読み取れる。不思議な書体である。象形文字のようで偏と旁のバランスが妙だが、遠くからでも認識できる。
メディアは、「佐藤修悦氏の新たな作品作り」とはやし立てるけれど、きっと本人は純粋に案内表記を作っているに過ぎないのだろう。ただ、この文字を使いたいために、彼の会社に発注が来たとしたら、彼にとっては芸術家扱いされるより喜ばしいことに違いない。日暮里駅の工事が終わったら、ここの修悦体も消滅である。神出鬼没の街のアート。次はどこに現れるか。それはちょっと楽しみだ。
飛行機? 文字だけではなくマーク作りへと進化しつつある。
さて、今日の旅の目的は『日暮里・舎人ライナー』である。新しくなった日暮里駅の橋上駅舎から、そのまま乗り場に行けるようだ。しかし私たちは地上に降りた。駅前に新築されたビルに駄菓子屋が入っている。そこへ行ってみようとH君に持ちかけた。別段、鉄道好きではない連れを気遣ってのことである。かつて駄菓子問屋街だった場所が再開発されたため、立ち退いた店が新しいビルに入った。『日暮里・舎人ライナー』の開業はテレビや雑誌でずいぶん紹介されたから、そんな沿線の情報も耳に入ってくる。焼き肉屋もその情報のひとつである。
確かに駅前のビルに駄菓子屋はあった。しかし残念ながら月曜は定休日だった。メディアの情報はいつも半端だ。あるいは見ている側が流れていく情報をしっかり心に留めていないせいか。駄菓子屋の奥にはミニカー専門店があった。開店を祝う花が並び、ガラスの扉の向こうで店員たちが並び朝礼をしていた。興味深いが開店までは間があるらしい。日暮里駅探索は切り上げたほうが良さそうだ。私は申し訳なく思い、「焼肉食べ放題屋も休みだったら悪いね」とこぼした。しかしH氏は、「いえ、年中無休ってグルメサイトに書いてありましたよ」と即答した。彼の"食"への情熱を垣間見た気がする。
様変わりした日暮里駅前。
駄菓子屋は休み。覗くと仕入れた菓子が山積み。
繁盛しているらしい。
ビルの中二階から『日暮里・舎人ライナー』の駅に通じていた。渡り廊下から見上げると列車が停まっていた。新交通システムの特長でもある小さな車体で、デザインは銀色で直線的。最近は何でも丸っこいデザインにしてしまうけれど、こちらは少々無骨である。クッキーの缶に窓を付けたような箱が並んでいる。「かわいいですねぇ」とH君が声を上げた。たしかに遊園地の豆汽車に通じる姿だ。私は乗り物はすべてアトラクションだと思っている。彼にもそんな気分が湧いてきたようである。もっとも、彼にとっては何もかもが焼肉の前座かもしれない。
開業ブームは去り、平日の昼前のせいもあって、私たち以外に掃除のオジサンしかいない。自動販売機で700円の『都営1日乗車券』を買った。いよいよ『日暮里・舎人ライナー』の旅の始まりである。
オモチャのような電車を見上げる。
-…つづく
第242回~の行程図
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