第29回:地獄の沙汰も金次第
バッハはザクセン王アウグストへの上申書で、1723年、聖霊降臨際から2年9ヵ月の間に何回の祈祷の音楽を担当し、その総計が36ターレル18グロッシェン6プーニッヒを貰う権利があるにも拘わらず、それに対して18ターレル13グロッシェン6プーニッヒしか貰っていない、かつ年間12グルデンの正規の給与も貰っていない…と、まことに具体的かつ細かく訴えていた。
アウグスト王からの返答は、意外に早くライプツィヒに届いた。1726年の年初めだった。アウグスト王はバッハの言い分を全面的に認める裁定を下したのだった。それにしても、ザクセンの国王たるアウグストが、自分の領域内ではあるにしろ、一商業都市ライプツィヒの音楽監督、カントルの極々些細な問題にまで関与したのは、それがたとえお抱えの法律顧問が返答をしたためたにしろ驚くべきことだった。

ポーランド、リトアニア及びザクセンの国王アウグスト
ストロングとプロレスラーのような仇名を付けられている。
実際、彼は馬鹿力の持ち主でそれが自慢でもあった。
また、体力にもの言わせたのか、大変な発展家で、
ありとあらゆる階級の女性に手を出していたようだ。
バッハと対立していた聖パウロ教会の音楽監督兼オルガニストのゲルナーと大学当局との戦いは、バッハの勝ちになった。だが、王権に頼ってまで裁定を仰いだバッハに対して、彼らは根に持った。バッハとゲルナーの争いは尾を引き、ゲルナーは反撃のチャンスを狙っていた。
ミケランジェロやベートーベンが吝嗇(りんしょく)に近いケチだったことは有名な話だ。それが彼らの芸術を損なうものではないのだが…。我がバッハも金銭に対しては細かく、かつ煩かった。それなら、死後貧困に陥ることが目に見えていた妻アンナ・マグダレーナや子供たちに何かを残す工夫をしてしかるべきなのだが、それはやっていない。前述したアウグスト王への上申書に呆れ果てるほどコマゴマと最低単位のペニッヒまで書き連ねているにも拘わらずだ。
バッハの前のカントル、クーナウは鷹揚にも特別な礼拝以外は無償で聖パウロ教会の音楽を司っていたのに比べると、たとえゲルナーという卑劣漢と大学当局がアンチバッハに凝り固まっていた勢力に対抗するためとは言え、バッハの権利と金銭に対する執着は恒常ではない。
バッハとゲルナー、大学の悶着に弾正裁定を下したザクセン王アウグストは、ポーランドの王位を手に入れるためカトリックに改宗していたが、彼には別れた后、クリスティアーネ・エーベルハルディーネ妃がいた。
ザクセン選帝侯妃・ポーランド王妃
クリスティアーネ・エーベルハルディーネ
彼女は改宗を拒み、ルッター派の信仰を捨てず、
夫君と別れ、ヴィッテンベルク郊外のブーレッツ城に引き篭もっていた。
クリスティアーネ王妃はザクセンで人気があり、慕われていた。
1727年にクリスティアーネ王妃が崩御した時、すでにアウグスト王と離婚していたことではあるし、ザクセン王宮としては公式な葬儀をするのかしないのか、その気があるのかないのか、あまり急がなかった。そこにライプツィヒ大学の学生、貴族階級であり、かつ大金持ちの学生、ハンス・カール・フォン・キルバッハが乗り出し、費用はすべて彼が持ち、大学内の聖パウロ教会でクリスティアーネ王妃の葬儀を行うと言い出した。アウグスト王は、自分がカトリック王になり、ルッター派の信仰に凝り固まっていた元妻の葬儀に関わらなく済むので、ハンスが自前で取り仕切る葬儀を許可したのだった。
追悼カンタータ曲の作詞は、この地方で盛名を博していたヨハン・クリストフ・ゴットシェートに依頼し(もちろん大枚を叩いて)、作曲はバッハに依頼した。バッハが聖パウロ教会で自作の追悼曲を演奏するには、音楽監督兼オルガニストのゲルナー、それに大学当局との根深い確執があることは知っていたはずだ。聖パウロ教会でバッハが自作の追悼曲を自演するには大きな障害あることを知りながら、ハンスの依頼を心よく引き受けたのは、はっきり言って謝礼の額が大金だったからだと思う。当時の12グルデンは大金だった。
ゲルナーは猛然と反バッハ活動を始めた。バッハに自分の領域である聖パウロ教会で演奏されてたまるかというわけだ。ゲルナーはまず大学当局に訴えた。自分が音楽監督を勤める聖パウロ教会で自分を無視して他の人間が演奏するのは契約違反だと主張したのだ。大学の評議会は、バッハがすでに作曲に取り掛かっていることではあるし、バッハの曲をゲルナーが指揮、演奏するという逃げの決定を下した。当然、そんな条件を受け入れるバッハではない。スポンサーたるハンス・キルバッハも、バッハの作曲、バッハの演奏に固執した。
そこでゲルナーは、彼の本性を如実に現す条件を出したのだった。ゲルナーは直接ハンス・キルバッハに会いに行き、もし作曲、演奏指揮の費用12グルデンを頂けるなら、引き下がりましょうと言った。結局、ハンス・キルバッハは二重に、実際に作曲、演奏をするバッハとそれを黙認するだけのゲルナーの両方に同額を支払ったのだ。
一金満家の学生が全くの善意、ルッター派の信仰のために行おうとしたクリスティアーネ王妃の葬儀は泥試合になったのだ。こんな条件下でさえ、バッハは作曲し、追悼式にはザクセンだけでなく多くの町や村から大勢の人を集め演奏、指揮をした。追悼式は成功裏に終わった。
事実かどうか、ハンス・キルバッハからバッハと同額の謝礼?を受け取ったゲルナーは、さらに頭に乗り、ハンス・キルバッハを通じてバッハの活動を規制するよう働きかけようとした。それは、今後バッハは聖パウロ教会の礼拝に一切関係しないことなど、細々した契約書を書き上げ、それに大学当局のサインを貰い、それを持ってまずハンス・キルバッハのサインを貰い、後押ししてもらうつもりだった。学生のハンスにも、ゲルナーの下衆な根性はミエミエだった。彼はそんな仲介をするほど、間抜けではなかった。
ゲルナーは(実際は彼自身ではなく、大学の書記だったようだ)、バッハの元にその契約書を持って行った時、バッハは昼食の最中で、使者にそれを読み上げるように要求した。使者がゲルナーの契約書を読むうちに、短気なバッハの顔は赤く染まり、口に入れていた肉団子を喉に詰まらせながら、「トットと失せやがれ!」と怒鳴ったと伝えられている。それがドイツ語だったとか、いや“Apage!”とラテン語だったとも言われている。これが事実なのか伝記作家の創作なのか判然としないにしろ、ゲルナーとバッハの軋轢、二人の性格が如実に現れた逸話だと思い、ここに書いてみた。
こんな環境の下で、絶え間ない争いの中で作曲、演奏を続けたバッハの神経は普通ではない。元々天才というのは、いかなる環境にあっても創作を続けることができる人種なのだろう。ドフトエフスキーも、バーデンバーデンのカジノですった金をカタに取られ、出版社との不当な契約に縛られ、馬車馬のように書きまくり、それでも追いつかず、当時としては珍しい口述、速記で名作を残した。モーツアルトも然り、ミケランジェロも自ら告白しているように、煩悶、葛藤しながら何代もの法王に心ならずも遣え、その重圧の中から数々の作品を生み出した。世に天才と呼ばれている人間は、俗人とはかけ離れた精神力と創作意欲を持っていたのではないかと、ボンヤリと想像するだけだ。
それにしても、それにしてもだ、神に仕える身でありながらも、彼らのエゴの強さ、言い出したら決して後に引かない執拗さには、いつも溜息が出るほど呆れ果てる。キリスト教の同じ宗派の中でさえ絶え間なく利権が絡んだ宗教論争を展開し、自己主張、自己保持のすさまじいばかりの争いを展開する、そこには相対する立場を認め合い、マアマア…と相手を思いやる中庸の精神は微塵もない。
それが表面化したのが、賛美歌問題だった。
-…つづく
第30回:清らかに謳え、賛美歌
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