第380回:流行り歌に寄せて No.185 「グッド・ナイト・ベイビー」~昭和43年(1968年)
今年の2月15日、ザ・キング・トーンズのリーダーでリードテナーの内田正人さんが亡くなった。82歳だった。日本のリズム・アンド・ブルース(以下:R&B)界の草分け的存在であり、後進の多くのミュージシャンに敬愛されていた人である。
私などは、あのオールバックでサングラス姿の印象が強いため、最初からそのスタイルであるかのように思っていたが、今回YouTubeでザ・キング・トーンズのデビュー当時の映像を観ることができ、そのすっきりした若々しい姿に「ああ、そうだった、こんな感じだった」と思い出すことができた。
このYouTubeの映像は昭和43年のものだが、実に画質も音質もよく、ローズピンクのスーツに蝶ネクタイの彼ら4人が、50年以上前のものとは思えないほど、鮮明に再生されている。大切に、丁寧にものを保存している人はいるものだ、と改めて感心させられた。
ザ・キング・トーンズ。昭和33年6月、当時、日本大学法学部に在学中の内田正人が、アマチュア・コンテストなどで知りあった成田邦彦、石井迪、加生スミオとともに、日本でも大変人気の高かったプラターズ・スタイルのコーラス・グループを結成する。プラターズに倣い、女性ヴォーカリストの佐藤サエコを迎え、ザ・ファイブ・トーンズという名前で音楽活動を始めたのが、その前進であるという。
そして、昭和35年2月に佐藤が体調を崩して脱退したため、ザ・キング・トーンズと名前を変え、いわゆるドゥー・ワップ・スタイルという唱法で徐々に人気を上げて、放送の世界にも進出した。それと同時に、米軍キャンプでは、憧れのプラターズほか、米国で人気があった多くのR&Bグループと共演し、大変な好評を得た。
その後、ポップス調の歌手の曲のバック・コーラスを続けたりしていたが、昭和43年5月1日、ついに日本グラモフォンから「グッド・ナイト・ベイビー」でレコード・デビューを果たした。その時のキャッチ・フレーズが「30歳の新人グループ」。最初のグループ結成から10年経過してのデビューだった。
発売当初はあまり評判が立たなかったものの、仙台で火が点いたのをきっかけに、じっくりと徐々に売れていき、翌昭和44年3月には4週続けてチャート2位につける大きなヒットとなった。そして米国でもレコードが発売され、この年の大晦日の第20回NHK紅白歌合戦への出場を果たしたのである。
「グッド・ナイト・ベイビー」 ひろ・まなみ:作詞 むつ・ひろし:作曲 早川博二:編曲 ザ・キング・トーンズ:歌
きっといつかは 君のパパも
わかってくれる(二人の愛を)
後ろを向いた ふるえる肩を
抱いてあげよう だから
*グッド・ナイト グッド・ナイト・ベイビー 涙こらえて
今夜は このまま おやすみ グッド・ナイト
グッド・ナイト グッド・ナイト・ベイビー 涙こらえて
楽しい 明日を 夢みて グッド・ナイト*
やっとみつけた この幸せは
誰にもあげない(二人のものさ)
涙にぬれた 冷たいほほを
ふいてあげよう だから
(*くり返し)
グッド・ナイト グッド・ナイト
作詞家のひろ・まなみと作曲家のむつ・ひろしは、和田アキ子の『どしゃぶりの雨の中で』でもコンビを組んでいる。但し、この時の筆名は作詞のひろは大日方俊子、作曲のむつは小田島和彦とまったくの別名義なのが面白い。
ひろ・まなみ(大日方俊子)は、慶応義塾大学を卒業後、テレビのディレクターをしていたがフリーになり、作詞・訳詞の他に、プロデューサー、イベント企画、コーディネーターと、広く音楽業界全般に渡って活躍している。野口五郎のデビュー曲『博多みれん』や『オレンジの雨』などの作詞も手掛けた人だ。
むつ・ひろし(小田島和彦)の作曲で代表的なものは、さくらと一郎の『昭和枯れすゝき』、石川セリの『八月の濡れた砂』などがあり、曲調の幅広さを感じる。
編曲の早川博二は、作曲家でありトランペッターでもあった。また『早川博二&モダン・ポップス・オーケストラ』で指揮棒も振っている。左卜全と(劇団ひまわりの女子小学生5人で作られたユニット)ひまわりキティーズの『老人と子供のポルカ』。左が77歳で亡くなる前の年に作られヒットした曲だが、これは早川の作詞・作曲によるものだった。
さて、ザ・キング・トーンズ。時々メンバーを変え、第1期から第3期まで半世紀を越えて、リーダーの内田が体調不良で出られなくなってからも、ずっと活動を続けているようである。
そして、ただ一人残ったオリジナル・メンバー、成田邦彦は82歳になった現在でも、「歩くドゥー・ワップのカタログ」の異名を持ち、ステージで長身を生かしたパフォーマンスを披露していると聞く。
-…つづく
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