第724回:定番化する挨拶や献辞
人生を長いことやっていると、人の前で挨拶をしたり、何らかの受賞式に参列したり、加えて結婚や葬儀で一言述べなければならないはめに陥ったり、長ったらしい挨拶を聞かされる機会がチョイチョイあります。
プエルト・リコの大学に勤めていた時、私に学部長の席が回ってきて、大学の総会、会議だけでなく、地元の人たちとの懇親会、学生さんの身内が亡くなる度に、大学を代表してそのお葬式などに列席しなければなりませんでした。おかげでプエルト・リコの集会での挨拶のやり方を知ることができました。
まず最前列に座っている、一応は重要人物であろう全員をイチイチ、役職、肩書き、博士号を持っているなら何の専門でどこそこで取得したとやり、もちろんその人物がその主催する団体にいかに大切な存在であり、優れた役割を果たしてきたかを述べるのです。それが列席しているエライサンが20人ほどいるのが普通ですから、議題に入る前にモウ、うんざりしてしまいます。しかも、その人物、例えば私の場合だけに限っても、よく間違えるのです。名前の呼び方、読み方を間違え、役職、専門を間違え、いざ私が壇上に立った時、そんなマチガイを正すのも、紹介してくれた司会者に悪いような気がして“マ、良いか”と流してしまうようになりました。
ハリウッドの映画祭、アカデミー賞の授賞式で、受賞者が必ずその映画の監督、製作者に感謝の意を述べるのは分かりますが、決まりきったように、男優なら彼の奥さん、女優さんならダンナさん、そして子供たちに感謝の一言を付け加えます。それも決まりきったように、私の素晴らしい伴侶、絶世の美人美男であり理解者である最愛の妻、夫、そしてこの世のなかで最高で掛替えのない子供たちとやるのです。家族全員の名前を羅列するのが当たり前になってきたようなのです。しまいには、ペットの犬、猫、金魚まで引っ張り出すのではないかと気になるほどです。
シカとした追跡調査をしたわけではありませんが、授賞式で“最良の伴侶”である最大級の美女、美男に大感謝し、“あなたなしには今日の私はありえなかった”などと大見得を切ったカップルは、案外何度も離婚、結婚を繰り返しているのではなかと思いますよ。
何とか賞の授賞式ほどではないですが、本の最初のページにもダレソレに捧げるという献辞が載っています。大抵、著者の伴侶、あるいは両親、本を書き上げるまで支えてくれた編集者、著者に大きな影響を与えた人物を挙げ、捧げています。そんな個人的なことは、お金を払って本を買った読者に関係がありませんから、普段の日常生活の中で感謝なり、愛情を十分表現し、行動で示すべきです。逆に言えば、普段の生活で全く自己中心的で、伴侶のことなど無視し続けているので、本が仕上がった時くらい、一行感謝の意を書き、載せ、それで贖罪したつもりなのかもしれませんね。そして、あの献辞を第一ページに載せ、ダレソレへ捧げるとやられた方に、絶大な効果がある…らしいのです。もっとも、私は一度も本の見開きページで“愛する何とかに捧げる”とやられたことはありませんが…。
“あとがき”に載せる感謝の辞は、主に本の編集に携わった人に対しての感謝ですから、本をすでに読み終わっていることですし、マー、そのくらい許せるか、分かるような気がします。
最近では、学術論文にまで献辞を載るようになりました。論文を指導した担当教官や偉い教授だけならまだしも、自分の伴侶や親の名前を連ねる御仁が出てきました。そんな献辞を見ると、論文に目を通す前に、プロの研究者としての価値が下がってしまうような気分になります。あなたの書いた研究論文に家庭の事情まで持ち込まないでよ、と言いたくなります。
今手元にある本の献辞だけをパラパラ捲ってみると、凡そ献辞とは縁のなさそうな本、生き方をしている著者の本にまで献辞があり、改めて驚かされました。たとえば、ジャン・ジュネの『泥棒日記』には、“サルトルへ、カストールへ”と二人の名前が並列して書かれています。カストールとは、サルトルの愛人、伴侶のシモーヌ・ド・ボーボワールのことだそうです。これが、“これまで、私にモノを盗まれた数多くの被害者に捧げる”とでもあれば、良かったのにと思いますよ。
もう一人、凡そ誰かに感謝するようには思えないマルグリット・デュラスの『愛人』にも“ブルーノ・ニュイッテンに”とあります。ブルーノは映画のカメラマンだそうです。これも読者に全く関係がない、個人的なことでしょう。ボードレールの詩集『悪の華』にまで詩的だけけど長ったらしい献辞があります。“……テオフィル・ゴーティエに この上なく深い謙遜の 思いをこめて 私は捧げる これらの病める花々を C・B”とあり、私なぞにはとても屋根裏部屋の詩人が“深い謙遜を込めて”いるようには聞こえません。
雑然と英語、日本語、スペイン語の本を開いてみたところ、見開きページに堂々と、当然の権利だといわんばかりに献辞を載せている日本語の本、日本人が著者の本が少ないことに気がつきました。謙遜の意識がそうさせるのでしょうか。巻末のあとがきには、人の名前をたくさん並べているのですが。中には、西欧の本にあるように、初めに感謝の辞を書き入れたかったが、衒いと恥ずかしさから巻末に妻への感謝を述べさせてもらいます…などと正直に書いている著者もいます。
ドキュメンタリーの分野でたくさん優れた業績を残している柳田邦男さんも普段なら、あとがきの中でお世話になった人、取材に応じてくれた人への感謝の言葉を述べているのですが、『マリコ』では冒頭に“深い感謝を込めてK・Yに捧げる”と書き、K・Yさんが余程この本を書くとき大きな助けになったであろうことを思わせます。
そういえば古典中の古典、『宝島』にもスティーブンソンは長い献辞を書いています。“アメリカの紳士、ロイド・オズボーンへ 君の古典趣味にしたがい、次の物語は構想されたのですが、数々の楽しい時を過ごさせてくれたお礼に、心からの熱愛を込めて、いまこれを献呈します。親愛なる友著者より”とあります。これなど、文学研究者はロイド・オズボーンなる人物が誰で、スティーブンソンとどんな関係にあったのか、突き止められているでしょうけど、あの面白い冒険小説の読者に関係ないかな~と思います。
砂漠に魅せられ、面白エッセー、物語を独特の語り口で書き、ちょっとしたベストセラー作家になったエドワード・アビィー(Edward Abbey)の『砂漠の孤独』(Desert Solitaire)にさえ献辞があるのを発見しました。ただ簡単に“ジョッシュとアーロンへ”とあるだけですが…。
文学とは程遠い冒険ミステリーの大御所フレデリック・フォーサイスまで、『悪魔の選択』(The Devil’s Alternative)で冒頭の献辞を、“いまだに無知なるわが息子――フレデリック・スチュアートへ”とやっています。フォーサイス、お前もかと言いたくなります。
若かりし頃感動し、読み返したロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』にも献辞があることに今、初めて気がつきました。かなり長い序文があるので見落としていたのでしょうか。その献辞は、“すべての国々の、悩み、たたかい、そしてついには勝つであろう自由な魂にささぐ”とあり、広く深い視野を持つ著者、さすがの献辞です。
まったく俗な疑問ですが、献辞を書き、載せ、堂々と、かの人物に捧げているのですから、その本の著作権、莫大な金額になろう著作料は捧げられた人物が所有することになるのかしら? ただのリップサービスの献辞なら、してもらわない方がスッキリするのではないかと思いますが…。
私が後世に残る本を書く可能性はゼロに近いですけど、まだ一行も書いていない本の献辞は、ロマン・ロラン風にはならずに、両親とかダンナさんにしてしまい? 読者の軽蔑をかうことになってしまいそうな気がします。
-…つづく
第725回:民間療法のあれこれ
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