第22回:サイラス・ソウルの運命
いつの世でもそうだが、勇気ある正論を唱え、かつ行動に出るものは不幸な運命に遭う。
サンドクリークの公聴会が幕を閉じる以前、サイラスはデンバー市内で暗殺されたのだ。弾丸は彼の頭を打ち抜き、脳を破壊し即死だった。1865年4月23日の夜9時半から10時頃のことだった。
彼は新妻とデンバーの今では中心地区になっているアラパホ通りと背中合わせになっているカーティス通りに住んでいた。彼らの家に銃弾が撃ち込まれたのだ。明らかにサイラスへの警告、公聴会での証言に対する嫌がらせ、脅迫の銃撃だった。狙撃者はサイラスの住まいを熟知していたに違いない。4月末の夕刻9時過ぎはとっぷりと日が暮れ、暗闇が町を覆っていたことだろう。
サイラスは咄嗟に銃を掴み家を飛び出し、逃げた狙撃犯をアラパホ通りへと追った。
狙撃犯とサイラスは至近距離から同時に撃ち合った。狙撃者は腕に銃弾を受け、流血する程度に負傷した。サイラスは頬から頭脳に抜ける致命傷を負い、即死状態だった。犯人の血痕は間近の陸軍の基地へと続いており、狙撃者が軍人、騎兵隊員であることを示唆していた。
だが、基地は一種の地外法権地区であることは、沖縄の米軍基地で苦い体験を強いられて、知るところだ。その夜、負傷して帰還した兵を見つけるのは最も簡単なことだった。狙撃犯はすぐに割れた。“スクワイアー”とだけ記録されている騎兵隊員だった。
サイラスが暗殺された場所に貼られたプレート
北軍の英雄であり、奴隷解放の闘志であったサイラス・ソウル享年27歳
結婚して80日と経っていなかった
暗殺があった3日後、サイラスの葬儀が行われた。彼が指揮した第一義勇騎兵隊だけでなく、将校の多くが列席した。コロラド州知事のエヴァンスも出席した。が、もちろん、シヴィングトンは現れなかった。シヴィングトンの欠席は軍の伝統に背くものだったが、シヴィングトンはすでに1月に軍籍を離れているので、葬儀に列席する義務はなかったという言い訳は成り立つ。
サイラスの死は公聴会でシヴィングトンを弾劾するチャンスを失くし、シヴィングトンサイドの一方的なサイラス糾弾に終始する運びになった。サイラス殺害は暗殺者の思惑通りになったのだ。
このサイラス暗殺にシヴィングトンが絡んでいた、黒幕だったという意見は当時からあった。が今日、歴史家たちはシヴィングトンが直接、サイラス殺害に関与してはいなかったという見解に落ち着いている。スクワイアー自身は、軍の中に満ち満ちていたインディアン撲滅派、シヴィングトンに肩入れした、アンチサイラス派の一人だっただけなのだろう。
公聴会は続いた。シヴィングトンはライアン砦にいたリップマン・メイヤーという御者を呼び、サイラスはいつも酔っ払っており、かつ盗癖がある卑怯者だったと証言させたりしている。確かに、全く酒を口にしないシヴィングトンとは対照的にサイラスは騎兵隊員と一緒に痛飲していたのは事実だが…。このような陳述は、サンドクリーク虐殺とはかけ離れた、サイラス個人に向けた中傷なのだが、状況的証拠とも呼べないような中傷は時に影響力を持つ。
サンドクリークの公聴会は、2月9日から5月30日まで76日間に及んだ。その間、アメリカ史の重大事件が相次いで起こった。4月9日に、南軍のロバート・リー将軍が北軍ユリシス・グラント将軍に降伏、調印し、南北戦争は終結した。その5日後に、リンカーン大統領がワシントンDCのフォード劇場で暗殺された。
サイラスを暗殺したスクワイアーはニューメキシコに流れていたのをキャノン中尉が逮捕し、デンバーへと連行し、軍事裁判所へ引き渡した。だが、コロラドの軍自体が余程インディアン撲滅の方向にあったのだろう、スクワイアーは悠々と脱走し、行方が分からなくなった。
スクワイアーを逮捕したキャノン中尉は、7月14日毒殺された。犯人を特定し、逮捕することはできなかった。
鳴り物入りで始まったサンドクリーク公聴会は、南北戦争の集結、それに追い討ちをかけるリンカーン大統領の暗殺、まだ安定していなかった北軍政府から合衆国への移行などなどのアメリカ全土の問題の陰に隠れ、なんら決定らしい決断を下すことなく閉会した。シヴィングトンは罪に問われなかったのだ。
中央政府、合衆国政府は、サンドクリークどころではなかったと言い切って良いと思う。
尻つぼみに終わった公聴会ではあったが、膨大な記録を残す役割は果たした。その記録を読みながら、日本の軍政の暴走とその後の政府の弱腰の対応を思わずにいられない。誰が見ても無謀なノモンハン戦争*1を企画し、日本政府に知らせることなく、勝手に暴走し、何万もの兵士を死に追いやった辻政信少佐は、責任を取らされることもなく、上海に転勤し、その後シンガポール作戦の参謀になった。そこで華僑の大虐殺をやった。これは日本陸軍が行った暴走の極一部だ。
合衆国政府はインディアンを人道的に扱うという建前を崩さなかったが、実情は空約束の繰り返しで、インディアンを荒れ果てた保留地区に押し込める政策を推進しただけだった。
-…つづく
*1:ノモンハン戦争(事件);1939年5月から同年9月にかけて、満洲国とモンゴル人民共和国の間の国境線を巡って発生した紛争。双方の死傷者・行方不明者が2万人以上にも達した。
第23回:サンドクリーク後のシヴィングトン
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