第23回:サンドクリーク後のシヴィングトン
サイラス・ソウル大尉は銃弾にたおれ、遺体はデンバーの北西にある墓地に葬られた。

公共墓地に目立たない、ありきたりの墓石の下にサイラス・ソウルは葬られている
デンバーのアラパホ通りにある青銅の小さなプレートも、2010年11月23日にコロラド歴史協会が認定して掲示された。死後実に145年も経ってからのことだ。サンドクリークの虐殺は広く知れ渡っているが、軍人、騎兵隊の中に虐殺を防ごうとした者がいたことはあまり知られていない。今回も、このコラムを書き始める前に資料集めに勤しんだが、サイラス・ソウルの伝記、一冊の本として出版されたものがないのにショックを受けた。あるのは断片ばかりだった。公聴会の記録も、大詰めを迎える前にサイラスは殺されているので、証言の記録は極めて少ない。
翻って、サンドクリーク虐殺を引き起こしたシヴィングトンの方は史料が多い。
シヴィングトンの前歴はすでに書いた。どうして彼のようなメソジスト派の牧師、宣教師がいきなり指揮官になり得たのか、南北戦争で北軍は猫の手を借りたいほど兵隊、軍人不足だった事情はある。それにしてもシヴィングトンがスロー大佐(Colonel John Slough)指揮下で、いきなり少佐に抜擢されたのは理解できない。シヴィングトン40歳のことだ。
彼自身に軍歴は全くなく、兵卒としても士官としても、教育、経験はゼロだった。だが、彼は宣教師時代に鍛えた弁舌の巧みさだけは群を抜いていた。その上、カップクが良く、押し出しが立派だった。教会に集まった信徒たちに対するように、兵士の前で深く、厚みのある豊かな声量で演説し、兵士たちを奮い立たせるのが上手かった。おまけに、彼には軍上層部、コロラド州の政治家たちにおもねる狡猾さがあったのだろう。
コロラド領域の知事だったギルピン(William Gilpin)、そして、州になってからの知事エヴァンス(Evans)などに取り入った。もっとも、南北戦争が激しくなり、テキサスレンジャー部隊が北上し、コロラドに向かっている時だったから、シヴィングトンがまとめ、率いる義勇騎兵隊418名は貴重な戦力で、政治家にとっては利用価値がある存在だったのだろう。
アリゾナ、ニューメキシコでの戦歴を評価する歴史家は少ない。だが、行きがけの駄賃のように偶然から南軍の軍事供給物資を満載した列車をグロリエッタで襲い、奪ったのは大きな成果だった。幸運に恵まれているのが優れた軍人としての要素なら、シヴィングトンはこの時点まで運の拓けた軍人だったと言えるかもしれない。
サンドクリークで実際に何が起こったかを知ってから、シヴィングトンが朋友と頼っていたエヴァンス知事、彼の直属の上司カーティス将軍らは彼を見放した。エヴァンスなどはやはり政治家だった。増長し、自己肥大したシヴィングトンを、面倒を起こした厄介者として切り捨てたのだ。公聴会が始まる遥か以前、1865年の2月に軍籍を削除し、その後人気が高まったコロラド州で上院議会議員に立候補し、政界に入ろうとしたのをエヴァンス知事は辞めさせた。
軍籍を剥奪され、政界へのデビューもままならず、シヴィングトンは息子トーマスのコネでネブラスカの農園の管理人の職に就いた。そんな仕事は自己顕示欲の強い男におよそ向いていなかったのだろう。ずさんな管理だけならまだしも、息子の嫁、サラを誘惑し、1871年に結婚までしている。後にサラは、唾棄するように、「彼は働かずにお金を稼ぐことばかり考えている犯罪者だ」と言っているが、実際、サラの実家から相当な金額を借金し、当然のことながら返却していない。
このプライベートなスキャンダル、息子の嫁を寝取ったことで、それまでどうにかシヴィングトンの周りにいた人たち、彼の話を聞いてくれるインディアン対策強硬派らも彼から離れて行った。

晩年のシヴィングトン
シヴィングトンはワシントンに赴き、インディアンの侵害で受けたという被害37,000ドルを得ようとしたが、もちろん相手にもされなかった。一時、オマハに戻ったり、ニューヨークにサラの親族を頼ったり、美味しい話を披露して回った。いよいよ進退極まったのだろう、オマハの新聞の編集者の職を得た。それはオマハの新聞で名を売り、ネブラスカ州の議員に立候補するための下準備だった。対立候補者がシヴィングトンをサンドクリーク虐殺事件の張本人だと指摘するに至り、州議会議員の選挙運動を降りている。それが1883年のことだから、サンドクリーク虐殺事件はおよそ20年経っても、コロラド州の外で人々の記憶に残っていたことが知れる。
その後、シヴィングトンはコロラドに戻った。それまで仕事らしい仕事を何一つしてこなかった。最後に就いたのが保安官補という保安官の一任で採用できる臨時雇い、薄給の仕事だった。往年の彼を覚えていた保安官が、70歳を越した彼に提供したのだ。
だが、シヴィングトンはその職にあること短く、癌で73歳の生涯を終えた。当時として長命だった。
義勇騎兵隊を離れてからのシヴィングトンは、死ぬまで30年を惨めに過ごした。サンドクリーク事件の前まで彼を英雄のように扱っていたマスコミも、手のひらを返すようにシヴィングトン・バッシングに終始した。シヴィングトンはある意味でエヴァンス知事やカーティス将軍に体良く利用され、捨てられたと言える。
もっとも、自己顕示欲が異常に強いシヴィングトンは、機構としての軍隊、政治を理解できなかった。典型的な説教者に過ぎなかったと言える。世間は彼の説教を聞こうと集まった信者ではなかったのだ。
1996年になってから、メソジスト教会はサンドクリーク虐殺事件を“遺憾である”と、シャイアン族や他の部族に謝罪するかのように表明した。しかし、一体それが何なのだろう? 謝罪を表明するまで、シヴィングトンがメソジスト派の宣教師であったという一点で、サンドクリークの虐殺が“正当な戦い”だとの史観を持っていたのだろうか。
-…つづく
第24回:サンドクリークとウィリアム・ベント
|