サラセンとキリスト教徒軍騎士たちが入り乱れ
絶世の美女、麗しのアンジェリーカを巡って繰り広げる
イタリアルネサンス文学を代表する大冒険ロマンを
ギュスターヴ・ドレの絵と共に楽しむ
谷口 江里也 文
ルドヴィコ・アリオスト 原作
ギュスターヴ・ドレ 絵
第 8 歌 騎士たちとアンジェリーナのその後
第 3 話: 老呪術師の淫らな欲望
呪術師が地獄から呼び出した悪鬼を体の中に入れられてしまった馬は、アンジェリーカを乗せて、呪術師が命じた場所へとまっしぐら。やがて馬は、切り立った岩山に囲まれた小さな、人の気配など全くない砂浜まで来てようやく止まった。
落とされまいとしがみついて疲労困憊していたアンジェリーカは、目の前は海、周りは切り立った岩の壁という場所の、いかにも怪しげな気配に恐ろしくなり、滑り落ちるようにして馬から降りると、岩陰に身を寄せて、自らに降りかかった運命のあまりのむごさに絶えきれず泣き崩れた。
もちろんそこは、老いた呪術師が自らの不埒な欲望を遂げるために選んだ場所。やがて陽も暮れかかり、麗しの乙女がますます心細くなり、誰かにすがりたくなる頃を見計らって呪術師は、地獄から連れ出したもう一匹の空飛ぶ悪鬼に乗ってやってきた。
どこにも逃れようのないこの場所で、たった一人で泣き崩れている絶世の美女に慰めの言葉をかけたりなどして想いを遂げようというのが呪術師の悪どい魂胆。いやはや理性というもののカケラさえとっくに失くしてしまった老人の、しかもやろうと思えばなんでもできる悪しき呪術師の虚妄ほど怖いものはありません。
アンジェリーカが体を横たえて泣き続けている砂浜を見下ろす岩山の頂上に降り立った老いた呪術師は、麗しの乙女が助けを求めるかのように虚ろな目で空《くう》を見つめてぐったりとしているのを見ると、何くわぬ顔をしてアンジェリーカに近寄り、どうしてこんな所に? などと白々しい言葉をかけ、私がいるからもう大丈夫だのなんだのと、自らの醜い姿には全く似合わぬ甘い言葉や慰めの言葉などをかけた。
全くもって、こんな風に使われたのでは言葉がかわいそう。もちろん呪術師のそんな分別などあるはずもなく、呪術師は、疲れと恐怖で体を動かすことさえできないアンジェリーカに少しづつ近寄ると、あろうことか、素知らぬ顔で絶世の美女アンジェリーカの、冷め切った足や濡れた薄衣が張り付いて寒さに震える腰や胸に触れようとする始末。
挙げ句の果てに、さあ私が暖めてあげよう、などと精一杯の甘い声で言いつつ、欲望も露わに抱きしめようとしたものだから、アンジェリーカは驚いて、力を振り絞り、手を突き出してそれを拒んだ。
どうやら自分が好かれてはいないどころか、はっきりと嫌がられていると、いまさらながら思い知った老呪術師は、それで諦めればいいものを、それが邪婬《じゃいん》な欲望というものの恐ろしさ。頭の中から体の隅々まで邪念でいっぱいになってしまった呪術師は、今度は懐からこっそり眠り薬を取り出してアンジェリーカに振りかけた。
たちまち深い眠りに落ちてアンジェリーカは、砂地の上に体の線もあらわに仰向けになって崩れ落ちた。女神のようなその体をしばらく舐め回すように鑑賞した呪術師は、さあていよいよ、などとつぶやきながらアンジェリーカの花びらのような唇に、乾いてひび割れた唇を押し当てると、もはや情欲を抑えきれずにアンジェリーカの体に覆いかぶさった。ところが、これが天罰というものか、何十年も若い女性の体に触ったことがなかった老人の体が、絶世の美女を前にして全く役に立たない。
哀れ呪術師、矢尽き刀折れ、とはまさにこのこと。どんなに頑張っても焦っても、老いた体はどうにもならない。しかも老骨に鞭打って頑張ったせいで、精も根も無駄に使い果たしてぐったりとなってしまい、とうとう老呪術師は、アンジェリーカの横に失神したかのように崩れ落ち、そのまま眠ってしまった。
バカな呪術師にはそうしてしばらく眠っていただくとして、これからのお話の展開上、どうしてもお話ししておかなくてはならないのは、この浜辺の近くの、世にも不思議な島の物語。それについては第8歌、第4話にて。
-…つづく