第48回:ドイツ人医師、フアン・カルロス先生
夫婦の力学はハタで観ていると、なるほどと納得がいくバランスを保っていることが多いものだ。私にも、猛烈なお喋り、それも相手の言うことに聞く耳を持たず、ひたすら一方的に喋り捲るタイプの友人がいる。同級生同士で集まる時、彼を呼んだものかどうか悩みの種になるほどだ。彼氏がいると他の者同士の会話が成立しなくなるからだ。ところが、彼の家に行って驚いた。これも相当な話好きな奥さんの前では3歩下がり、優しげに頷くだけで、聞き役に回っていたのだった。
『カサ・デ・バンブー』を開店した当初から、フアン・カルロス先生はお得意、常連だった。彼が余りにスペイン国王のフアン・カルロス1世に似ているので、何時までたっても本名を知らぬままフアン・カルロス先生で終わってしまった。我がフアン・カルロス先生が何者であるかは、情報通のギュンターがツブサに教えてくれた。ドイツはアーヘンのかなり高名な心臓外科医だというのだ。
ほかのドイツ人も、彼には丁寧な物言いをしているのが見て取れた。フアン・カルロス先生は『カサ・デ・バンブー』から道とも呼べない緩やかな幅の広い階段を50-60メートル上ったところにあるヴァカンス用の小さなアパートに毎年のように奥さんと子供を2人、お兄ちゃんと女の子を連れてやって来ていた。彼もまた、ヴァカンスはイビサと決めているドイツのイビサ族の一人だった。
このフアン・カルロス先生、ギュンターやクルツさん、他のドイツ人と一杯飲む時は、ナカナカの論客らしく、その場に居合わせる人の声より、彼の声だけが響き渡るのだった。それが、元気溌剌、これまた話好きな奥さんと一緒の時は、にこやかに頷き、もっぱら聞き役に回るのだった。
フアン・カルロス先生一家は毎年のように判で押したように8月、9月の2ヶ月間、このロスモリーノスで過ごすのだった。途中、先生だけが何かの急用、急患でもあるのか、家族を残して4、5日ドイツに戻ることがあるにしろ、基本的には夏はイビサで過ごすのだった。

スペイン国王にそっくりだったフアン・カルロス先生
フアン・カルロス先生は中年としては引き締まった、若々しい体つきをしているのに比べ、奥さんの方は中年太りが始まり、裸で日光浴をしている二人は、後ろから見ると母子のように見えなくもなかった。
彼らのように毎年訪れる家族で目を見張らされるのは、子供たちの変わりようだ。彼らの息子ジャンとサンドラは、1年毎、まるで竹の子が伸びるように、ある時期はヒョロヒョロと上に伸び、数年後には幅も広がり、坊やが男性に、少女が女性に変わっていくのだった。息子のジャンは妹が天真爛漫、むしろヤンチャなのに比べ、内気なくらい静かな少年だった。髪を肩まで垂らし、薄っすらと口ひげが生え始めていたから、14、5歳になっていただろうか。
ある年、フアン・カルロス先生一家が、ジャン抜きの3人だけでイビサにやってきた。イビサに着いたその日に、恒例のように『カサ・デ・バンブー』に来てくれ、私もスペイン産のフレシネ(Freixenet)のシャンペンを開け、「ようこそ、イビサへ!」と歓迎の杯を揚げたのだが、その時、「アレッ? ジャンは今年来ないの?」と軽い気持ちで訊いてしまった。そして、人間の表情、顔全体が激しく歪み、泣き崩れていく様を目の当たりにしたのだった。
奥さんの目から涙が溢れ出て、頬を伝わり、口元まで濡らし、文字通りグシャグシャの顔のまま、ドイツ語で「彼は死んだ(Er ist gestorben.)」と宣言するように言ったのだった。奥さんは語学のセンスがあり、とても達者な英語を話すし、スペイン語も私などより正統的な話し方をしていたのだが、震える泣き声で口から出たのはドイツ語だった。
私の余計な質問が、彼らのイビサ初日のお祭り気分を吹き飛ばしてしまったのだ。フアン・カルロス先生は優しく奥さんの肩や背を撫でるように慰めていた。娘のサンドラもお母さんをハグし、落ち着かせようとした。フアン・カルロス先生は彼女を抱きかかえるように連れ出し、緩い坂を登って行ったのだ。
彼らの息子ジャンに何が起こったのかは、イビサのゴシップセンターのギュンターから後で聞かされ知った。どの手のドラッグかは分からないが、オーバードース(overdose)で死んだことのようだった。
フアン・カルロス先生の奥さんは、その夏頻繁に一人で『カサ・デ・バンブー』に降りてくるようになり、そして泥酔した。先生、サンドラが彼女を探しに、迎えに来るのことが繰り返された。彼女が一人で来た時、強い酒、ウォッカ、コニャック、ブランデー、ウィスキーなどを出すべきでない…と感じてはいたが、こんなショーバイをしていると、注文されたモノを出さずに済ますことは難しいものだ。
奥さんをアパートに連れ帰ってから、必ずフアン・カルロス先生が降りてきて、支払いを済ませてくれたが、それが何度も重なった後に、どうかウチの家内に酒を出さないでくれと宣言されたのだった。
私は一つの魂が崩れて行くのを傍観するより他なかった。彼女が一人で、しかもすでに相当酔って『カサ・デ・バンブー』に来た時、“もう、お酒は飲むな、その代わりに、美味しいお茶を淹れるから、それを飲んで気分を取り直せ”と英語で諭し、ハーブティーのマンサニィージャ(manzanilla;リンゴの甘い香りのスペイン産カモミール茶)を相当濃く淹れ、彼女に出し、その間にカルメンおばさんか、ウエイトレスのアントニアをフアン・カルロス先生のアパートに向かわせることが繰り返された。
翌年、まだ店が暇だった時だから、セマナサンタ(イースター、復活祭)休暇の時だと思う。いつもは夏しか来ないはずのフアン・カルロス先生一家がイビサにやってきて、ブランチ(朝食と昼食を兼ね合わせた食事)に私を招待してくれた。その当時、やっとという感じで、私はカフェテリア稼業にも慣れ、ウエイターに仕事を任せることを覚え、時間も比較的自由に使えるようになっていた。
私はドイツコーヒーとイビサの軽いパン、エンサイマダ(ensaimada;バレアレス諸島の甘く柔らかい渦巻状のパン)程度だろうと気楽に出かけたところ、明らかに私のために特別に準備した盛大なブランチがテーブルクロスを広げたアンティーク風の大きなテーブルに並べられていたのだ。
それはブランチというような簡略なものではなく、ドイツから持ち込んだ、ハム類数種、ジャムはリンゴ、イチゴ、マーマレード、ブルーベリーと手作り風に壷に入ったもの、パンもドイツ風の黒く堅いモノから、バゲット、クロワッサン、その上、厚切りのベーコン、卵焼き、チーズも数種類、そして後からステーキまで出てきたのだった。
こんな、素晴らしい食事ができるなら、『カサ・デ・バンブー』など必要ないなと思わずにいられなかった。
奥さんは台所専門で、すっかり大人びてきたサンドラは給仕役をこなした。フアン・カルロス先生と私は、最近始めたばかりのウインドサーフィンの話題に終始した。フアン・カルロス先生のウインドサーフィンの腕前は私より相当上で、奥さんとサンドラは私とどっこいどっこいのレベルだった。
二人の女性が席に着くと、自然会話は奥さんが牛耳ることになった。私は以前、少しうるさく思っていた奥さんのお喋りがまた復活したことを喜ばしく思った。

大人になったアレクサンドラ(バンブーにて)
彼らのアパートを辞す時、奥さんの方は、大げさに大きなハグをし、サンドラも童顔なのにすでに巨大の域に近づいていた胸を恥らいもなく私に押し付けるようにハグしてくれたのだった。
その時、サイドボードに置いてあった死んだジャンの写真に目が行ってしまった。それを目ざとく捉えたフアン・カルロス先生が、心なしかいつもよりがっちり握手してきて、「いや、もう家内は大丈夫だ、ありがとう…」と呟いたのだった。
-…つづく
第49回:イビサ流船釣り体験の顛末
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