第29回:私がかつて通ったバー
更新日2004/06/24
これはまったく自慢になることではなく、店でお話しすると、たいがいの方に怪訝そうな顔をされる話だが、私は今の店を始める前には、バーと名のつく場所にはほとんど行ったことがなかった。
「通った」と言えるのはわずかに2軒だけで、その1軒は、私が店を始める寸前から行きだした、今でも大変お世話になっている自由が丘のバー。もう1軒が、かつて祐天寺にあった『蜂』という名の小さなバーだ。
勤め人時代全体を通して、行っていたのはもっぱら居酒屋だった。ごくたまに、知り合いに誘われてスナックに顔を出すぐらい。とにかく安月給だったのにもかかわらず、毎日のように飲んでいたため、自ずと行く場所は限られていた。ときには静かなところで飲みたいと思ったこともあったが、そういうところは酒代が嵩むだろうと勝手に決めつけていて、なかなか近づくことがなかった。
『蜂』を知人に紹介されたのは、たしか1982年(昭和57年)の頃だった。その知人もバーをよく利用しているという方ではなかったが、
「とにかく静かで、良い店があるんだ。君が若い女の子目当てで飲むタイプでないのは、僕がよく知っている。上品な老貴婦人が一人で営業している店だ」
と言って誘ってくれた。
私はけっして若い女の子の店に行かないタイプの人間ではなく、ただ飲み代に事欠くからそういう店になかなか行けなかっただけのことだが、彼に説明するのも面倒なので、黙って付いて行くことにした。
祐天寺駅から2分くらい歩いた線路沿いにその店はあった。入り口には仄暗いランプが灯り、小さく『蜂』とロゴが書かれている。外からは中の様子がまったく窺えない重い木の扉を開けると、6、7席のカウンターだけの小さな空間があった。
店内は適度に照度を落とした照明で、小さな音でFM放送が流れ、カウンターの中には、おそらく70歳くらいで美しい銀髪の、まさに貴婦人が立っていらして、穏やかで上品な笑顔で、「いらっしゃいませ」とあいさつされた。彼女はマレーネ・ディートリッヒによく似ていた。
初めて行ったその日、どんな話をしたのかはよく憶えていない。とにかく、その頃はそれがバーであることもわからず、今まで入ったことのない店の雰囲気にとまどい、かなり緊張していたようだ。今考えてみると、最初に入ったバーがその店であったことは、本当に幸運だったと思う。
その後、私は一人でその店に通うようになった。驚くほど安い店だった。当時私はサントリーの角瓶が好きでよく飲んでいて(今でも角瓶好きは変わらないが)、ここでもボトルをキープしていた。一度キープすると、その後そのボトルを飲んでいるだけでは、チャージなどのお金が一切かからない。つまみなどを頼んでも廉価で、会計が何百円などということも、いく度となくあった。
初めて会ったときのママさんの上品なイメージは、いつまでも変わることがなかった。常に穏やかな笑みをたたえ、きちんとした日本語で丁寧な話し方をされる方だった。それでいて、筋の通らない話は許さない芯の強さは持っていて、静かな口調ながら自分の意見は、はっきりと述べられた。
ある女性のお客さんから、「ママは白百合のご出身なのよ。まさにそういう感じでしょう?」と何回か言われたことがあったが、これについてはどういう意味なのか、未だによくわからない。今度店のお客さんに聞いてみようと思う。
通い始めて1年くらい経った頃か、私が9年越しの恋に破れて、まったく屈託した思いで『蜂』を訪ねたことがあった。私はどちらかというと、辛いことがあった日は、酒は飲まずにとにかくすぐに眠ることにしているのだが、その日はさすがに事情が違った。
閉店近い時刻に店に入り、ぐったりした感じで席に着いた。いつもの様子と違うことにすぐに気付かれたのだろう。ママは声には出さなかったが、「どうかなさったの?」という表情で私を見つめてこられた。私はぽつりぽつりと心の中のことを話し始めた。
しばらくすると閉店の時刻になった。この店はよほどのことがない限り、時間通りに店を閉めていた。私は話の途中だったが、「ママさん、また来ます」と言って帰ろうとした。
すると、ママはバック・バーに置かれた小さな目覚まし時計の向きをひっくり返して時刻が見えないようにしてから、「どうぞ、つづきをお話しください」と穏やかな笑顔を向けてくださった。私はそれから小1時間、永すぎた春の顛末を話し続けた。
それから1年もしないうちに、その店の大家の代が変わり、立ち退きしなければならないことになった。私はあまりにショックで、ある夜泥酔して、「ママさんがわがままだから出て行かなくてはならなくなったんでしょう」とまったくわけのわからない暴言を吐いて、ママにからんだ。
それを聞いたときのママの悲しそうな目を、今でもはっきり憶えている。甘えて駄々をこねてみせたかったのだろうか、何であんなことを言ってしまったのか、その後何回考えても解らない。私は今までいくつかの失言をしてきたが、取り返しがつかないということでは、あれが最たるものだろう。
彼女は静かに店を畳んで、横浜の生麦の方に住まいを変えられた。住所も電話番号も伺っていたが、その後一度も連絡はしていない。今ご存命なら卒寿を迎えられる頃だろう。
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