第131回:パブ『ワーグナー』のロイのこと
パブ『ワーグナー』はカジェ・マジョール(Calle Mayor)の入り口近くにあり、道路に張り出したテラスに鋳物の小さな丸テーブルを並べ、通りを行き交う人を眺めることができる、イビサにしてはハイブローのバルだ。開け放たれた内部は、長いカウンターにテーブルが5、6脚、内装は純イギリス風たらんとしたのだろう、マホガニー、ローズウッド(もちろん色合いだけだが…)を多用し、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。インテリアに一顧も与えない『タベルナ』『フィエスタ』『ラ・フィンカ』などの老舗穴倉バーとは一線を画していた。
Magno、Cardenal Mendozaなど、スペイン産ブランデー
酒も、ウイスキーならスペイン産の粗悪品?“ディック(DYC)”などは置かず、スコッチかアイリッシュだけ。ブランデーも中級品以上の“マグノ(Magno)”、“カルロス一世(CarlosⅠ)”、“カルデナル・メンドーサ(Cardenal Mendoza)”クラスか、フランスの本格的コニャックだった。
『ワーグナー』は激安チャーターフライトのパッケージツアーでやって来る避暑客などは全く相手にせず、もっぱらクオリティーを求める金持ち層を狙っていた。例えば、コニャックのグラスもスペインのバルで使っているミニチュアみたいなフウセングラスではなく、大きく膨らんだ本格的なものだったし、ウイスキーのタンブラーも、背の高い、薄いガラスで、しかも氷はあくまで透明な自家製(ミネラルウォーターを一度沸騰し、製氷機に入れていた)だった。
すべてに拘る『ワーグナー』のオーナーはロイという長身のイギリス人だった。『タベルナ』のマーチンが脂ぎった灰色の髪を首が隠れるくらい伸ばしっ放し、一体酒気が抜けることがあるのかという態なのに対し、ロイの方は姿勢が良いうえ引き締まった身体の50男だった。
私がロイとどのように知り合い、一定の距離は置いていたが、親しみを覚える仲になったのかが思い出せない。『カサ・デ・バンブー』の開店パーティーの時、旧市街とダル・ヴィラ(Dalt Vila;城壁内の居住地区)でショーバイをしている人を誰彼なく招待した時、ロイはドイツ人ガールフレンドのスーザンと彼女の娘を連れて来てくれたことはよく覚えている。
その時、花束と“ヘネシー(Hennessy;フランス産コニャック)”を持ってきてくれたのだ。当時のイビサでは、開店祝いに何かプレゼントを持っていくのは珍しく、90%以上の招待客は、大いに飲み食いし、成功を祈っていると挨拶するだけだった。その代りなのだろうか、招待した人の半数くらいは、1週間以内くらいに、店に来てくれるのだった。
ロイはスーザンと7、8歳の可愛い盛りの娘を連れて来てくれた。その時だったと思う、ロイがマレーシアの軍だったか警察官をトレーニングするためイギリスから派遣され、数年そこで過ごしたことを知った。すっかりマレーシアが気に入り、引退後そこに住むつもりだったところ、ほんの短いヴァカンスでイビサを訪れ、スーザンに逢ってしまったのが運の尽き、パブをやり、居座ることになってしまったと言っていた。
スーザンは少し訛りがあるが奇麗な英語を話した。だが、娘には英語、ドイツ語を混ぜ、時折、躾のためか命令口調になる時はドイツ語だった。一方、ロイの方は、自身、言語中枢が壊れていると認めるほど、スペイン語もドイツ語もカラッキシ駄目だった。
ロイとスーザンは、年に2、3度ほど『カサ・デ・バンブー』に来てくれた。元々下戸の私の方はといえば、もっぱら、『タベルナ』か『ラ・フィンカ』、『フィエスタ』で安コニャックをなめるだけで、ロイのパブ『ワーグナー』には、マドリッドや日本、アメリカから友人が来た時に、カフェテラスでゆっくりするためにしか行ったことがなかった。そんな時、ロイは軍人然とした顔を思いっ切りほころばせ、カウンターの後ろから出てきて、ゴツイ手で握手し、スペイン人のウェイターをさておき、自ら私たちのテーブルまで、倍ほど大盛りにしたコニャックやウイスキーを運んでくるのだった。
郊外にあるフィンカ(別荘;本文とは無関係)
オフシーズンに入ると、イビサでショーバイをしている人たち、観光客相手の仕事をしている人たち、ブティックのオーナー、売り子、ホテルのメイドらはこぞって島を離れる。旅に出る前に、仲間内のパーティーが多く開かれるのもこの時期だった。ヤレヤレ、今シーズンも何とか無事に終えたという安堵感があり、リラックスした集いを持つのだ。『サン・テルモ』のイヴォンヌ、『ピノッチオ』のペドロのパーティーには何度も顔を出した。ロイから彼の家でパーティーをやるから…と招待を受けた時、私はすでに当時安く売り出していたパン・ナム(Pan Am;パンアメリカン航空;1991年運航停止)の“80日間世界一周チケット”なるものを購入し、予定を組んでいたので、彼の家に行くことができなかった。彼のフィンカ(イビサ風の農家)を覗くチャンスを失ったのだった。
確か、その次の年のことだったと思うが、夏の最盛期にかかる前にスーザンが一人で、ではなくドイツ人のマッチョと一緒に『カサ・デ・バンブー』にやって来たのだ。二人がただならぬ関係であることは、彼らの仕草から明らかだった。元々ロイとスーザンの関係もよく知らなかったから、イビサによくある、浮き草のような、気軽な男女関係かな…と想像していた。それに、スーザンと直接面と向かって話をしたこともほとんどなかったから、彼女がどのような性格、経歴の持ち主かも全く知らなかったのだ。
クソが付くほど真面目で直情的なロイは、このことを知っているのだろうか? 子持ちの30女と50男の間だから、割り切っているのだろうか…? と思っていた。ただ、この場所にロイが来なければいいな…とだけ念じていた。
だが、逆にそんなことは得てして起こるものなのだ。
ロイはスーザンの娘の手を引き、『カサ・デ・バンブー』に現れたのだ。スーザンを探して、あちらこちらカフェテリア、バル、レストランを彷徨いここに来たのだろう。娘の方は、大声で「マミー!」と叫び、スーザンに駆け寄った。ロイもテーブルに歩み寄った。スーザンがドイツ人マッチョをロイに紹介し、二人は握手まで交わした。ロイは言葉少なく、テーブルを離れ、すぐにカウンターの私のところにやって来た。あれからもう40-50年も経つのに、あの時のロイの顔が脳裏に浮かぶことがある。
ロイが私の方に歩み寄ってきた時、燦燦と太陽の降り注ぐ『カサ・デ・バンブー』の庭の気温が、スーッと十何度か下がったような気がした。50男があのように氷り付き、怒りと苦渋に満ちた悲しみで蒼白な顔になるものだろうか…。裏切られ踏み潰されたロイの怒り、絶望が綯い交ぜになりそのまま顔に出ているのだった。私は一つの魂の破滅を見たのだった。
CarlosⅠ(カルロス・プリメーロ)
ロイにはいつも孤独の影が付き纏っていた。イギリス人の同業者と呑み歩いたり、彼らのパーティーに出かけることもなかった。少なくとも、私はそのような席でロイを見たことがない。『タベルナ』のマーチンのように、30歳年下のガールフレンドを持ったり、『フィエスタ』や他のバルのオーナーのように、2週間おきに、次々と愛人つくるタイプではなかった。どちらかと言えば、私同様のトウヘンボクで、男女の機微に疎く、ナイーブなところがあったのだ。
ロイは、私が「これはオゴリだ…」と出した“CarlosⅠ(カルロス・プリメーロ;スペイン産ブランディー)”のグラスにジーッと目を向けたまま、感情の嵐を抑え込もうとしていた。怒りを内向させず、爆発させることができたら、どれほど楽になるだろう、と私自身できもしないことを、ロイに負い被せた。私は慰める言葉もなく、ただ黙っていた。
ロイがカウンターにいたのは5分ほどだっただろうか、それから、いかにもロイらしく、「コニャック、どうもご馳走様…」と、丁寧に言い残し、去ったのだった。
その年の夏のハイシーズン真っ最中に、カジェ・マジョールを通り抜けた時、パブ『ワーグナー』のワインカラーの扉が閉まっており、そこに“SE VENDE(売りたし)”の張り紙がしてあったのを見た。
幾日も経たず、ロイが拘って創り上げたパブ『ワーグナー』はドイツ人の手に渡り、デイスコ音楽をガンガン鳴らすバルになっていた。
第132回:ハングリー・スピリッツは成功の鍵
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