のらり 大好評連載中   
 
■イビサ物語~ロスモリーノスの夕陽カフェにて
 

第101回:突然の訪問者

更新日2020/01/23

 

apartamento-01
日当たり抜群の2階のテラス

その時、アパートのテラスで朝食を摂っていたから、ピークシーズンを終え、『カサ・デ・バンブー』をすでに閉めていた頃、そしてまだ潮風が心地よい10月だったと思う。

ドアをノックする音と同時に、老犬ボクサーのアリストはこの時とばかり下顎を突き出すように太く低い声で、大きく吼えながら真っ先に入口のドアに向かった。私がアリストの首輪を掴み、ドアを開けると、そこに痩せ型、長身の男が立っていた。そして、「アリスト~~、元気でいたか~」とアリストの頭をなで、軽くたたき、アリストの方は、本当に彼を覚えていたのか、名前を呼ばれ、頭をなでられると、ただ反射的に切られたシッポを振っただけのか分からないが、定番の歓迎の腰振りダンスで出迎えた。

彼は自己紹介をし、私のアパートに以前住んでいたことがあり、数年振りにイビサを訪れ、素晴らしい日々を過ごしたアパートを外からだけでも見ようと近くまで来たところ、私がテラスで、のんびりとコーヒーを飲んでいるのを目にし、ツイ、ドアをノックしてしまった、と言うのだった。

私は、彼を招き入れ、コーヒーとクロワッサンの簡単な朝食を供したのだった。彼の名はマイケル=マイクだったと記憶している。マイクは全く遠慮せず、飾り気のない部屋を見回しながらテラスの椅子に腰を降ろしたのだった。

私がこのアパートに住み始めた時、インド、バリ島的なソファークッションが残されたままになっていた。一枚の油絵も壁に掛かったママになっていた。それは未完成のもので、薄紫の下塗りに緋色の民族衣装を着たマサイ族が直立しまま宙を突くように跳んでいる奇妙な絵だった。私は、本来のズボラさから、その絵を暖炉の上の一等席に掛けっぱなしにしていたのだ。私のような素人が見ても、確かなデッサン力のある人が描いたものだと知れる絵だった。 

私は彼がその絵に目を留めたのに気が付き、あの絵はお前が描いたのかと訊いたところ、彼、マイクは、「いや、俺じゃない。ここで一緒に棲んでいた恋人のキャシーが描いたものだ」と簡単にイビサで過ごした日々を懐かしさを込めて、口数少なく語ったのだった。 

彼、マイクと恋人のキャシーがこのアパートで過ごしたのは1年足らずだった。彼らは両者とも芸術家、絵描きだった。彼は細密画のようなディーテイルを描き込むタイプで、オランダ人のキャシーはアフリカの旅からイビサに着いたばかりで、アフリカをテーマにした大胆で幻想的な絵を描いていた。二人はイビサで知り合い、彼が借りていたこのアパートで合流した。

蜜月はひと夏続いたが、マイクは長年の夢、日本刀の刀工の修行をするため日本に住みたかったのに対し、キャシーはニューヨークで絵描きとして成功するのが夢で、どうにも折り合いがつかなかった。マイクがキャシーに未練を抱き、キャシーとのイビサ時代に深い郷愁を抱いていることがアリアリと伺えた。

私はマサイ族の絵を、良かったら持って行かないかと言った時、マイクは一瞬、私の頭の向こう側、はるか遠くを見るような目で見つめ、しばし沈黙し、そして、「イヤ、あの絵はこのアパートにあるべきものだ。私の青春のページはすでにめくってしまったのだから、あの絵もキャシーの思い出もここに留まるべきものだ…」とボソボソと言うのだった。

私は、いま70歳を超える老齢になっても、イビサを懐かしみ、強い郷愁を抱いている自分に気づくのだ。青春の一時でもイビサで過ごした者は、生涯、心の中にイビサを持ち歩くことになるのだ。キャシーが描いた一枚の絵のように、私の一部は海に面した崖の上のこのアパートに残されたままなのだ…。

apartamento-02
記憶に焼き付けられたテラスからの眺望

マイクはシアトルでゴムのスタンプ画を創作し、何百種類ものゴム印をオフィスデポやオフィスマックスのような文房具屋のチェーンに卸し、それが充分軌道に乗ったので、日本に刀工修行に出る前に、イビサへ郷愁旅行をしたことのようだった。

「刀工といえばかっこよく聞こえるが、ありゃ、食うや食わずで、とんでもなく長い年月の辛い修行を経て、なお一人前になれるかどうかの補償は全くないんだぞ…」と私自身全く知らない世界のことを諭すように言ったところ、マイクは静かに、「俺は一生に、一本の優れた刀を打てれば、それで良いと思っている。人間の一生とはそういうものだ」と、私が未だに忘れらないでいるコトバを返してきたのだった。そんな風に一生を送れるものだろうか、マイクの気張らない自然態を目の当たりにして、私は深く感動した。

マイクに帰り際、好きな動物はいるか、それは何だと訊かれた時、私は地中海であまり口にできないサケを、もっぱら食い気の方から脳裏にひらめき、その旨を告げた。「上手くデザインしたサケのスタンプがあるから、送るよ…」と軽く約束したのだった。この手のリップ・サービス的口約束は、ほとんど期待できないことを経験上知っていたが、マイクは日本に発つ前に、サケのゴム印と丁寧な礼状を送ってくれたのだった。

イビサのこのアパートでの朝食と私との出会いは、彼のヨーロッパ旅行のハイライトだった、これから日本で最低8年間は修行し、メドがつけばそのまま日本に一生棲むつもりだとあった。


 

第102回:グラナダからきたミゲル その1

このコラムの感想を書く

 


佐野 草介
(さの そうすけ)
著者にメールを送る

海から陸(おか)にあがり、コロラドロッキーも山間の田舎町に移り棲み、中西部をキャンプしながら山に登り、歩き回る生活をしています。

■フロンティア時代のアンチヒーローたち
~西部女傑列伝 5
[全28回]

■フロンティア時代のアンチヒーローたち
~西部女傑列伝 4
[全7回]

■フロンティア時代のアンチヒーローたち
~西部女傑列伝 3
[全7回]

■フロンティア時代のアンチヒーローたち
~西部女傑列伝 2
[全39回]

■フロンティア時代のアンチヒーローたち
~西部女傑列伝 1
[全39回]

■フロンティア時代のアンチヒーローたち
~西部アウトロー列伝 Part5
[全146回]

■フロンティア時代のアンチヒーローたち
~西部アウトロー列伝 Part4
[全82回]

■フロンティア時代のアンチヒーローたち
~西部アウトロー列伝 Part3
[全43回]

■フロンティア時代のアンチヒーローたち
~西部アウトロー列伝 Part2
[全18回]

■フロンティア時代のアンチヒーローたち
~西部アウトロー列伝
[全151回]

■貿易風の吹く島から
~カリブ海のヨットマンからの電子メール
[全157回]


バックナンバー
第1回(2017/12/27)~
第50回(2018/12/20)までのバックナンバー


第51回:3組のペペとカルメン
第52回:冬場のイビサ島 その1
第53回:冬場のイビサ島 その2
第54回:冬場のイビサ島 その3 ~アンダルシアとイビサ
第55回:隣人のルーシーさんとミアさん
第56回:ルーシーさんと老犬アリスト
第57回:オッパイ・リナの大変身
第58回:ゴメスさん倉庫で射撃大会
第59回:“ディア・デ・マタンサ”(堵殺の日) その1
第60回:“ディア・デ・マタンサ”(堵殺の日) その2
第61回:老いらくの恋 その1
第62回:老いらくの恋 その2
第63回:サン・テルモのイヴォンヌ その1
第64回:サン・テルモのイヴォンヌ その2
第65回:サンドラとその家族 その1
第66回:サンドラとその家族 その2
第67回:マジョルカの歌姫“マリア・デル・マル・ボネット”
第69回:イビサの合気道 その1
第69回:イビサの合気道 その2
第70回:プレイボーイの“サファリ” その1
第71回:プレイボーイの“サファリ” その2
第72回:イビサを舞台にした映画
第73回:アーティストの石岡瑛子さんのこと
第74回:コーベルさんのこと その1
第75回:コーベルさんのこと その2
第76回:映画好きなイビセンコ
第77回:ヒッピー・キャロルのこと
第78回:泥棒被害と役立たずの番犬アリスト
第79回:ピーターとティンカのこと その1
第80回:ピーターとティンカのこと その2
第81回:ピーターとティンカのこと その3
第82回:スペイン流節税対策とは…
第83回:税金より怖い社会保険料
第84回:テキヤのトム
第85回:漂泊の日本人老画家
第86回:カフェ・セントラルのヨハン
第87回:白髪の老嬢、カモメのミミさん
第88回:ウィンドサーフィンで初めて大西洋を横断した男 その1
第89回:ウィンドサーフィンで初めて大西洋を横断した男 その2
第90回:ウィンドサーフィンで初めて大西洋を横断した男 その3 ~セルジオとトムの冒険
第91回:イビサの不思議な愛人事情
第92回:“サンタ・アグネス・デ・コローナ”からきた少年
第93回:出版社の御曹司、へニングのこと
第94回:イビサのディスコ事情 《1970-80年台》
第95回:イビサのアダムとイブ
第96回:イビサ脱出組~イアン、タイク…
第97回:ピノッチョとペドロ その1
第98回:ピノッチョとペドロ その2
第99回:ジーンとハインツ
第100回:不思議な関係、奇妙なカップル

■更新予定日:毎週木曜日