第18回:酒場サルーンと女性たち その18
■ローラ・モンテス その1
ローラをこの酒場の女、娼婦のコラムに加えるのは、ローラにとって酷かもしれない。ローラはアメリカに来る前にヨーロッパで相当名の知られたダンサーだったからだ。しかも、伯爵夫人というやんごとなき称号を持っていた。ヨーロッパで名を馳せたのはダンサーとしてより、むしろ王侯貴族とのスキャンダラスな浮き名によるものだったにしろ。
ローラの筋目はハッキリしている。母エリザベス・オリヴァーの家系は、アイルランドのリメリックの城主だった。今でも、アイルランド西岸の町リメリックの郊外に千年前のその城がある。小さいながら緑に埋もれるような城は伝説をふんだんに抱えているように見えた。もうかれこれ半世紀前にそこを訪れた時、低い雨雲の中に浮かんだ城は神秘的だった。
ところが今回、ローラ・モンテスの生まれた居城を調べていたら、私が見たリメリックの城は建て替えられたものであることが分かった。千年の歴史どころか、40~50年そこそこの再建模写だと知った。ともかく、そこへローラの父親エンサイン・エドワード・ギルバートがイギリスから進駐、滞在し、ローラの母エリザベスと出会た。映画『ライアンの娘』の世界だ。当時、アイルランドは大英帝国の一部だった。
二人は1820年4月29日に結婚している。父親エドワードが英国将校としてアイルランドの第25部隊に赴任してきたのが1818年の12月だから、1年と少々で二人は出会い、熱烈な恋愛に陥り、結婚したのだろう。母親エリザベスは16歳だった。そして、ローラ・モンテスが生まれたのは1821年2月17日だから、電光石火のハネムーンベイビーだったのか、結婚した時点で母親エリザベスは妊娠していたととる方が当たっているかもしれない。
当時のカトリックではあり得ない、あってはならないことだった。ましてや相手がイギリス国教会の信者、アングロサクソンだとなれば、妊娠を隠して結婚させるよりほかなかったのだろう。出来ちゃった婚が当たり前の今の日本とはモラル感が全く違い、カトリックの教義が生活の隅々まで押さえ付けていた。
1820年代はまだ大英帝国の残影が植民地を覆っていた。父親エドワードがインドへ転任になり、それに伴いエリザベスとローラは同行している。ところがいくばくもなく、父親のエドワードはコレラで亡くなり、母親エリザベスは19歳で2歳の赤ん坊ローラを抱えた寡婦になったのだ。ところが、エリザベスはエドワードの部下であったパトリック・クレイグ中尉と、翌年に現地インドで結婚している。
このようにざっとローラの出生を辿ってきて、ローラの性格が驚くほど母親譲りであることに気が付いた。ローラは幼少の時から、癇が強く少しもジッとせず、絶えず動き回っている子だったようだ。何よりも我がままで、親、人の言うことをきかない子だった。
新郎のパトリックとエリザベスは、ローラを夫の実家、スコットランドのモンテローズに送った。そこでも手を焼かされている。教会でのミサの最中に当時老紳士が被っていた白い鬘(カツラ)にたくさんの花を差し込んだり、素っ裸で田舎町をほっつき歩いたりし、手の付けられない子供だっだ。ローラはワイルドなトラブルメーカーだった。
祖父、祖母も持て余し、モンクウエアマスの全寮制の学校に入れた。だが、そこも1年と続かず、そこからバースにあるカムデン・プレイスのやはり全寮制の学校に転校している。英国で全寮制の学校に師弟を入れるのは、相当な資産家、貴族に限られていた。
ローラの両親は彼女の教育に力を入れ、ローラをヴィクトリア調のレディに育て上げようとしていたのだろう。もっとも、手元に置いて、自分で躾けようとはしていないが、それは当時の上層階級で当たり前のことだった。

ローラ・モンテス 肖像画
<ヨーゼフ・スティーラー画>
ローラは気性の激しい娘だった。だが、自分の好きなこと、やりたいことには異常な集中力をみせた。ローラは、母親のエリザベスがで出来ちゃった婚をした同じ16歳で、トーマス・ジェイムスと結婚している。母親の結婚も同様だが、当時、アングロサンクソンのプロテスタントがカトリックと結婚するのは、大変な事件だった。まだ植民地の、早く言えば現地人との結婚は、キルケニー法で厳禁されていた。結婚に踏み切った場合、大逆罪が適応されるほどだった。
イギリスには憲法がなく、法も習慣法と呼んでいる過去の判例をもって裁いていた。ローラが結婚した当時、キルケニー法の規制が相当緩んでいたにしろ、英国軍人とアイルランド娘との結婚はスキャンダラスな大事件だった。
私たちがヨットでカリブの島々を巡っていた時、旧英国植民地だった島、サンタ・ルチア、サン ヴィセンテ、ドミニカ島などは、アフリカら連れてこられた奴隷、真っ黒な黒人ばかりなのに比べ、旧フランス、オランダの領の島々は真っ白から真っ黒まで肌の色は満遍なくいきわっていることに強い印象を受けた。その時は、キルケニー法があることなど全く知らなかったが…。
手のつけられないやんちゃ娘だったローラが、大人しく人妻淑女として納まるわけがない。元々有り余るエネルギーを体内に宿すローラは、体を動かすことが大好きで、ローティーンの時から踊りに興味を示していた。正当なバレーのレッスンを受講した記録はない。また、当時のダンス、男女が向かい合って、お辞儀をし、あるいは手に手を取ってステップを踏むような古典的社交ダンスではなく、あくまで自己表現として見せる踊りをローラは好んだ。
フラメンコ調のスペインの踊りが彼女の内面を表現するのに合致したのだろう、売りは『ローラ・モンテスマ、スパニッシュ・ダンス』と銘うってロンドンで公演している。すでにトーマス・ジェイムスとは別居していたのだが、Ms.ジェイムスとポスターにある。1843年6月、ローラ22歳の時のことだ。
ダンス史上に名を響かせているイサドラ・ダンカンの古いフィルムを覗いたことがある。ダンス界、バレーなどに至って暗い私にあえて言わせて貰えば、イサドラ・ダンカンの踊りはまるで高校の学芸会のレベルなのに呆れたことだ。さて、ローラのダンスがどんなものであったか、フィルムなどはないので、時の世評から判断するしかないのだが、当時の常識を破るセクシーな踊りだったようだ。それで2時間ほどのショーを見せるのだから、やはり彼女の体内から発散する何かがあったのだろう。

ヨーロッパで全盛時代に撮られたものだろう。ギンギラな首飾り、
衣装も闘牛士の“光の衣装”のようだ。
ただ、胸をガッポリと広げ、開けているのが闘牛士との違いか?
第19回:酒場サルーンと女性たち その19 ■ローラ・モンテス その2
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