第19回:酒場サルーンと女性たち その19
■ローラ・モンテス その2
その当時のオペラ、バレーのダンサーたちは金持ちで鼻の下を伸ばした紳士らの目に留まり、彼らの庇護を受ける、早く言えば愛人になるのが狙いだったとさえ思える。ローラはパリ、ワルシャワで公演をしているから、それなりに成功したのだろう。大成功したのはミュンヘン公演で、そこでババリア王(19世紀、ドイツはまだ複数の王国、公国に分かれていた)の目に留まり、ルードリッヒ一世の正規の?愛人になったことだ。

ルードリッヒ一世、ババリア王国の国王
ローラ・モンテスに惚れ込み振り回された
そのきっかけが揮っている。事実かどうかは別にして、ミュンヘンでの公演の後、ババリア王主催のパーティーで、王がローラに向かって貴女のその素晴らしい胸、おっぱいは本物かと尋ね、ローラは即座にパッと、ドレスの胸を広げおっぱいを出したと言うのだ。これには目撃者もいて、どうやら本当のことらしい。ローラの胸に魅せられたかどうか、ババリア王はローラを筆頭?愛人にしたのだ。
元来、芸術家、とりわけ舞台芸術に関わる者は、普通以上に自己顕示欲が強いものだ。皆が私を観ている、私の指先から足の爪先までの動きを観ている、観られているという意識があり、それが彼女の芸に跳ね返り、芸に磨きがかかると言えなくもない。
ローラの場合、舞台芸術家としてより、浮き名を流すことで、注目を集めたように見える。ローラは公式的に伯爵夫人の声名を持ち、それをフルに利用したようにさえ思える。19世紀半ばのパリの社交会は華やかだった。一時、パーティーにローラ・モンテスが来るというだけで、もの好きな貴族、芸術家が集ると言われた。
その中にハンガリーの作曲家、ピアニストのフランツ・リストもいた。リストとローラは愛人関係だったとゴシップ好きは書いているが、牧師然とした生き方を貫いたリストがローラと深い関係に陥ったとは思えない。ローラの方が今をトキメク大ピアニストの注意を引こうと、まとわりついただけのようだ。
同時にローラは、アレキサンドル・デュマと艶聞を流している。ローラはキラキラと光る性格の持ち主であり、かつ持って生まれた華やかさが身体全体から溢れており、彼女自身はそれを意識せずに、他人を惹きつけたのだろう。ジョルジュ・サンドの女権サークルにまで加わっている。ローラは数多くの小説、芝居の題材になった。

フランツ・リスト
ハンガリー出身の作曲家、大ピアニスト
ローラは自分の爵位、声名をふんだんに利用し、歯に絹着せぬ言動を派手に繰り広げた。女性の解放、自由主義、自由恋愛、アンチカトリックそして激しくイエズス会を批判した。既成のモラルをぶち壊すだけで、そこから何を作り上げ、生み出すかの思想性はなかったが、彼女の言動は世間に受けた。
ババリア王国のルードリッヒ一世が王権を息子のマクシミリアンに譲らなければならないハメに陥ったのは、一つにローラの振る舞いが派手になりすぎたからだと言われている。
もともと、ローラの踊りは激しいトレーニングを重ね、鍛えに鍛え抜いたプロのバレーリーナのそれではなかった。彼女の売りである“スパニッシュ・ダンス”にしろ、スペイン人、アンダルシアのジプシーが観たら、どこがスパニッシュなんだと言ったに違いない。エロティックで怪しげな踊りは、社交会の花、伯爵夫人が踊るからこそ騒がれたのだろう。
ローラの人気は急速に衰えた。ババリア王国のルードリッヒ一世も失脚し、ローラはロンドンに舞い戻った。そこでも、彼女の多情、多感は衰えず、ほとんど軽佻浮薄に見えるほどだ。今度は、若き騎兵隊員のジョージ・トラフォード・ヘラルドと電光石火で結婚した。と言うより、派手な結婚披露宴を開催した。ところが、ローラが16歳の時に結婚したトーマス・ジェイムスがそれを許さなかった、と言うよりローラとトーマスは法律上まだ夫婦だったからだ。愛人という半ば公式的な存在に寛容なフランスと異なり、イギリスでは重婚は立派な犯罪だった。ヴィクトリア調のモラルが社会を押さえ込んでいたのだ。
ローラがフランスやババリアで本性の赴くまま多くの愛人関係を結んできたが、イギリスではそうはいかなかった。ローラを言い表すのに英語で“Courtesan=遊女”が当てはまるだろう。
ところが、夫の騎兵隊員のジョージが結核に罹り、ローラは彼を捨て新大陸アメリカに渡ったのだ。それが1851年で、ジョージは1853年に死んでいる。ということは、彼が結核だと分かっていくばくもなく、ローラはジョージを捨て、アメリカに旅立ったのだ。ビッグ・ノーズ・ケイトが最後まで、結核のドク・ホリデーを看取ったのとはドエラク違う。ローラは、やはり天性の娼婦型だったのだろう。
西部の辺境ではショーガールと娼婦の境目は明確でなく、境界線は揺れ動いていた。丁度、アウトローとシェリフの間に仕切りがなく、ある時期にアウトローであった人物が、他の町へ行き保安官になったように…。
西部のフロンティアだけでなく、東部でも鳴り物入りの伯爵夫人ダンサー、しかも非常にセクシーな踊りだとなると受けに受けた。西部の小さな町にすら、オペラハウスなるものが存在した。パリやウイーンのオペラハウスとは似ても似つかぬ木造の小さな芝居小屋をオペラハウスと呼んでいたのだが…。ローラはそんな小屋で巡業した。
西部劇名作編で取り上げた『ブレイジング・サドル』でヨーロッパからやってきた金髪のショーガールに町のお偉方がこぞって惚れ込み、一夜を彼女と供にしようと言い寄るが、この女性、多分にローラのモジリだろう。
ローラはサンフランシスコに拠点を置き、地元の新聞社、社主のパトリック・ハルなる人物と派手に結婚している。当然の成り行きだが、この結婚劇は失敗に終わっている。その後、ローラはカリフォルニアのグラスヴァリーに移り、そこで少女たちにダンスレッスンをしており、彼女の生涯で比較的静かな日々を送っていたようだ。
ヨーロッパで飽きられ、アメリカでも人気が廃っていたローラが、次に求めたのはオーストラリアだった。
1855年6月にアメリカを出港、8月にオーストラリアはシドニーに着いている。アメリカのドサ周り的な巡業と違い、オーストラリアでは本格的な大劇場での公演だった。
だが、巡業開始、幕開けのメルボルン・ローヤル・シアターで早くもローラはやり過ぎた。元々、セクシーな踊りを披露することにローラの真骨頂があったのだが、舞台衣装のスカートを捲り上げ、素脚を見せる時、スカーをたくし上げすぎ、おまけにローラは普段から下着の類を一切身に付けなかったから女性性器、お尻まで丸見えになったのだ。
これがアメリカ西部なら、酔っ払った男どもがヤンヤの歓声をあげて終わるところだろうが、このメルボルンの劇場には、うら若き女性も、子供連れもたくさん入っていたから、非常識な非モラル的な公演だとバッシングされた。こんなイキサツを知ることができるのは、ローラの動向を事細かに調べ上げている歴史家、マイケル・キャノンのおかげだ。契約上、巡業を履行したのだろうが、オーストラリア公演は散々だった。
そして、ローラはオーストラリアに9ヵ月滞在しただけでサンフランシスコに舞い戻っている。
まだ、金鉱ブームの余韻があったサンフランシスコでは、何をやってもどんな商売でも金になると言われた時、ローラはもう一旗上げようとしたが、虚しかった。加えて言えば、オーストラリア巡業を企画、実行したプロモーターは帰りの航海の途中で海に消えた。投身自殺していた。
晩年と言っても、30代のローラはフィラデルフィア郊外で人知れず静かな日々を送り、1861年1月17日に亡くなっている。享年39歳。数年前から彼女の肉体を蝕み、生気を奪っていた梅毒が死因だった。
墓はニューヨーク、ブルックリンのグリーンウッド墓地にある。

ローラ・モンテスの墓石
享年42歳とあるが、実際は39歳で亡くなっている
第20回:酒場サルーンと女性たち その20 ■クイーン・アンと呼ばれたアン・バセット
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