第134回:『ガリンド精肉店』のこと
スペインでの日常的な買い物、食料品、雑貨などのショッピングにはえらく時間がかかる。スーパー方式のように自分で選び、それをカゴやカートに入れ、キャッシャーに持って行き、お金を払う方式は、スペインでは相当遅れて入ってきた。当時は、何かを一つ買うにしても、順番を待ち、店主、店員に一対一で何が欲しいかを伝え、彼らが奥の方からそれを引っ張り出してくるのという方式だった。
スペインの肉屋さん(参考イメージ)
それが大きな市場でも同じやり方で行われる。八百屋、肉屋でも鶏肉専門、馬肉屋、普通の牛肉と豚肉は幸い同じ店で扱っていたが、パン屋、雑貨屋、チーズ屋、オリーブ屋、調味料と油屋、魚屋と、その日のメニューに合わせ一々違う店で買い物をすることになる。
ウサギは生きたまま針金製の籠に入っているのを、客が選び、それを肉屋が目の前で後ろ足を持って逆さに吊るし、これかと確認し、後頭部を手刀で一発カマスと、ウサギは震えるように体を引きつらせ悶死する。そして、皮を剥ぎ、内臓を取り出し、因幡の白兎のようにツルンと裸のを、パエリャ用、煮込み用に叩き切るまで2分とかからない。
鶏はヴァレンシアとアリカンテとの間にある大きな養鶏所から来るが、イビサのカンポ(田舎)で自在に走り回っている鶏を“パジェッス(Pagès)”と呼び、今流なら地鶏、フリーレンジ、オーガニックとでも名づけるのだろか、当時でも普通のニワトリの2、3倍の値だった。それだけ払う価値がある…とする食通がいたのだろう、結構な需要があった。
それらは、いちいち並んで順番待ちをしてのことなのだ。その店に入ると、まず「キエネス ウルティマ?」(quién es la última?;最後の人は誰?)と大声を上げる。すると、「ソイ ジョ」(Soy Yo;私ですよ)と最後尾の人が答え、アテンドしてもらえる順番が確定する。主婦は買いだめをせずに毎日買出しに出かけるから、何時間か食料品の買出しに費やすことになる。
それはそれで納得のいく品物を吟味し、新鮮なモノを購入する理に適ったやり方ではあるのだが、何と言っても時間が掛かり過ぎる。
がリンド精肉店(Carnes Galindo;Google Mapより)
私は『ガリンド精肉店(Carnes Galindo)』に決める前に肉屋を3度変えた。『ガリンド精肉店』は目立たない店構えの上、狭い小路にあった。それぞれの肉屋は仕入れ元が異なり、どこの肉屋はアラゴンから、セゴヴィアから、ヴァレンシアからと、口喧しい主婦は選ぶ。私はもっぱらスピーディなサービスをしてくれるか否かで選んでいた。
どこの肉屋も店先は間口6間ほどで、店内の広さもせいぜい8畳から10畳程度、そこにガラス張りの冷蔵ショーケースがあり、後ろに肉屋が一人か多くてせいぜい3人控えていて、今日は煮込みに使うから、少し筋があってもいいけど、脂は取り除いてとか、歯の弱っている年寄りに食べさせるのだから、できるだけ柔らかいフィレ、首に近いところを薄切りにして…と、事細かに注文をつける主婦に応対する。これに対して、肉屋の方は大きな肉切り包丁を長い研ぎ棒でシャッシャッと鋭利にし、注文通りに肉を切るという、恐ろしく忍耐の要るシゴトをこなすのだ。従って一人の客、セニョーラに費やす時間も半端ではなく、私の前に大家族を賄う口うるさいセニャーラが4、5人もいたら、肉を仕入れるだけで半日シゴトになってしまうのだ。
その点、『ガリンド精肉店』は良かった。一般の客と私のところのような弱小カフェテリアでも商売人は別に扱ってくれ、直接、私自身がカウンターの奥にある8畳間ほどの冷蔵室への出入りが許され、フックに掛けられた肉の塊を自分で選べるようになったのだ。おまけに支払いも週一回、週末にまとめて小切手で決済できるのも、至極便利だった。『ガリンド精肉店』とは私がイビサを去るまで良い関係を保つことができた。
肉は牛も豚も、頭を落としただけの半身で本土から送られてくる。船が着く時間になると、肉屋や八百屋のフルゴネッタ(furgoneta;小型の屋根付きトラック)が桟橋に並ぶ。イビサはどこへ行くにしろたいした距離ではないから、冷凍、冷蔵トラックなどという豪華なものは存在しなかった。素早く積んで、運び、自分のところの冷蔵室に持ち込むのが基本だった。
半ば冗談で、私も半身の牛、まだ前足、後足の付いているのを担いだことがある。母親をいたずらに背負い、そのあまりの軽さに歩めなかった啄木先生とは逆に、私はその凶暴な重さ、ブヨンブヨンと揺れ動き、肩からずり落ちそうな牛の半身を落とさずに一歩一歩、足を踏みしめるのが精一杯だった。
肉の部位のスペイン名称
『ガリンド精肉店』は3人の共同経営だった。ガラスのショーケースの後ろで個人客をアテンドするのはぺぺ(またぺぺが登場するのだが、彼は小男のアンダルシア人)で、彼の下に2人のアユダンテ(ayudante;助手の店員)がおり、奥の方はもっぱらレストラン、カフェテリア、バルの顧客相手はアルツーロで、彼が半身の牛、豚の骨を外し、フィレーテ(Filete;テンダ-ロイン)、ソロミージョ(Solomillo;ヒレ肉)、エントレコット(Entrecot;リブロ-ス)、バビージャ(Babilla;ランプ)、レロンド(Redondo;モモ)などに腑分けし、クズ肉は挽いて腸詰にしたり、流行り始めていたハンバーガー用にしていた。
ピークシーズンに、アルツーロに見習い助手が付いた。手足の長い、しかしめっぽう力のある若者で、人使いの荒いアルツーロの命令一下、身軽に動き回っていた。その助手がアルツーロの息子であることを知ったのは2シーズンも経ってからのことだった。
もう一人のソシオ(socio;共同経営者)は引き締まったキリッとしたマスクの持ち主なのだが、酷いくる病(背むし)で、相当目立つ大きなこぶを背負っていた。彼が会計、仕入れを司っていて、どこそこのレストランには週払いの小切手で信用できるか、あそこはもう潰れそうだ、腐りを少なくし、よく回転させるため、来週の仕入れを抑えようと、云わば中枢の役割を担っていた。どうにも、彼の名前を思い出すことができないが、彼は黒髪豊かな美形の奥さんを連れて、何度か『カサ・デ・バンブー』に来てくれた。
いつのことだったか、『ガリンド精肉店』の奥の奥、窓のない3畳ほどの狭い事務所で一週間分の清算をする時、「今週の総売上は3ミリオンペセタか?」と冗談をかましたところ、「ウーン、もう少し行くかな…」と真面目に答えられたのには驚いた。私が言った3ミリオン(300万;当時のレートで約1,500万円)という数字も相当大げさなつもりだったからだ。あの間口6間、裏小路にある肉屋が年商億を軽く超えるとは想像もしていなかった。
私のような小さなホステレリア(接客水商売)でも、安定した肉の仕入れが大切だと指南してくれたのは『サン・テルモ(San Telmo)』のイヴォンヌだった。『サン・テルモ』は肉屋そこのけの大きな冷凍室、冷蔵室を作り、ヴァレンシアから直接肉を仕入れるようになっていた。『カサ・デ・バンブー』のような小さなカフェテリアでは、とてもそこまでいかないが、『ガリンド精肉店』がある限り、それで安泰だった。
肉と言えば、大学の寮の食堂でカレーに一切れでも肉が入っていたら、大事件だったほど肉とは縁がなかった私が、血抜きのため冷蔵庫に吊るされている半身を見て、これは堵殺してから何日経っているか、腐りが来る前のちょうど美味しくなる潮時だ…とまで分かるようになったのは、『ガリンド精肉店』のおかげだ。
また、仕入れ先と長く良い関係を保つことがいかに大切かを、『ガリンド精肉店』を通じて学んだのだった。
-…つづく
第135回:ヴィノ・パジェッス(農民ワイン)の思い出
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