第32回:オリンピックの顔と顔
更新日2004/08/05
アテネでのオリンピックが開かれるまで、あと1週間あまりになった。今回は第28回大会。古代オリンピックの地アテネで開催されるのは、第1回の近代オリンピックの開催地になってから、実に108年振りのことらしい。その間にパリ、ロンドン、ロサンゼルスなどの都市が複数回開催していることを考えると、ルーツ都市としては意外な気がする。
オリンピックの開催地の単位は国家ではなく、あくまで都市だということだ(だから19回大会を私はメキシコ大会という名前で覚えていたが、メキシコシティー大会が正しいらしい)。国家として見てみると、アメリカ合衆国はすでに4回、今まで7回のうち1回は開催していることになる。そうであってはならないと言われていても、やはり国威の発揚の場であることは否めないようだ。
最も印象深いオリンピックは、何と言っても1964年、第18回の東京大会だ。これはオリンピックの範疇に収まりきらない、大袈裟でも何でもなく、日本国全体を挙げての大祭典だった。後にも先にも、日本人全体がこれほど熱中したイベントはおそらくないだろう。
私は、長野県の小さな町の小学校3年生だった。学校の近くにある国道20号線に聖火ランナーが通るというので、校長先生以下、教職員、児童全員で沿道に並んで小旗を手に、彼を待った。この小さな町のどこにこんなに人がいるのかと驚くほど、多くの人が道に出ていた。ランナーは一瞬私の視界に入ったと思うと、ものすごいスピードで駆け抜けていってしまった。みんな「無心に」小旗を振り、声援をした。
開会式。今井光也のオリンピック・ファンファーレが鳴り響いた後、古関裕而のオリンピック・マーチに乗って選手が入場、小学生の鼓笛隊に合わせてオリンピック旗が運ばれた後、最後は、聖火最終ランナー坂井義則君。長い階段を上った後に、一呼吸おいて聖火台に点火された炎は勢いよく燃えだした。
その瞬間、日本人のほとんどの人たちが聖火とともに、歓喜で心を燃え立たせていたのだろう。新幹線が開通し、大きなビルや高速道路は次々と作られて、これから大きく成長していく日本の、国としての勢いをみんなが感じ、明るく開かれていく未来を信じていたのだと思う。
私は、オリンピック開催中、無論家に帰るとテレビの前から離れなかった。また、あの時は小学校の授業で、視聴覚教室のような場所で、クラス毎に順番でオリンピック放送を見せてくれた。
このオリンピックのテレビ放送は、生まれて初めて、多くの外国人の姿を見せてくれた。田舎の小学生にとって、目の当たりにするアジア人以外の外国人というのは教会の宣教師の婦人くらいで、あとは「名犬ラッシー」などのテレビ番組で見るくらいだった。それが、オリンピックで夥しい外国選手が登場してきたのだ。欧米、アフリカなどの選手の身体の大きさには、ただただ圧倒され、恐怖心さえ抱いた。
まず、陸上100メートルのヘイズや、水泳のショランダーなどのアメリカ勢の勢いには驚かされた。毎日、毎日「星条旗よ永遠なれ」を聞かされ続けた。そしてそれは、その後モスクワ大会を除く全ての大会で同じことが繰り返されるのだが。
また、子ども心にも、柔道無差別級を見ていて、オランダのヘーシンクの袈裟固めはどうやっても神永昭夫が外せるわけはないと思ったし、マラソンの最後に国立競技場に入ってきた英国のヒートリーのスピードには、円谷幸吉はゴール前で捉えられることになるだろうと、確信していた。それだけ、力の差を感じていたのだ。
女子バレー「東洋の魔女」の金メダル獲得の前に立ちふさがるソ連の壁。殊に、リスカルと言う選手は凄まじかった。「烈女」と呼ぶに相応しい形相でのスパイクで、日本のレシーブを何度もうち砕いた。アナウンサーの「さあ、リスカルが待っている」という言葉が今でも鮮明に思い出される。それでも、魔女たちは烈女を凌駕することができた。
体操男子で日本人初の個人総合優勝を狙う遠藤幸雄の前に、立ちふさがったのがシャハリンという、やはりソ連の選手。遠藤はシャハリンの猛追撃を受けたが、最後のあん馬で失敗をしつつも何とか逃げ切って、日本人初の快挙を成し遂げた。
このように、日本の金メダルの前には、何回かソ連の選手がいて「にっくき」存在だったのだが、私は、その後一人のソ連の女子体操選手に心を奪われてしまう。それは、4年後の1968年、メキシコシティー大会のことだ。
空気の薄い高地でのマラソンで銀メダルを取った君原健二や、大健闘の末、銅メダルを獲得したサッカーチームに、日本を挙げて拍手を送った大会だった。私は名古屋の港区に移り住み、中学1年生になっていた。
当時、ソ連は「プラハの春」を抑圧するためチェコスロバキアに侵攻し、国際世論を敵に回していた。それが女子体操界にも影を落とす。お互いが凌ぎを削るライバル国だが、団体総合では客席の指示がほとんどない中で、ソ連が金メダルを取る。
個人競技にはいると、東京大会で華々しくデビューしたチャスラフスカがベテランとなり、客席の圧倒的な拍手の中で、4種目のうち、床運動、跳馬、段違い平行棒で金メダルを取った。そしてもう一つの種目平均台を制し、ソ連の面目を保ったのが(我が)ナタリア・クチンスカヤだ。みなさんは、覚えていらっしゃらないだろうか?
私は一目で魅せられてしまった。美しいブロンズの髪、大きな青い瞳、エレガントな肢体。そして、当時19歳とは思えない華麗で落ち着いた、大人の色気を漂わせた平均台での演技。(段違い平行棒で失敗し落ちてしまったときは、あどけない笑顔を見せていたが)少し大きく開かれた胸元に、ドキドキしたものだ。
私は、その次の1972年のミュンヘン大会までは、オリンピックを熱心に見ていた。またその次のモントリオールの記憶がほとんどないのは、今回よくよく考えてみると上京してテレビを持たなかったからだ。
そしてモスクワ、ロサンゼルスで、オリンピックが冷戦の影響を受けたことで急に興味を失い、その後マスメディア主導が目立つようになったこともあり、最近の大会はあまり見ていない。今回はルーツ都市らしく、大らかに、牧歌的に行なってもらいたいものだが、はたしてどうだろうか。
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