第478回:流行り歌に寄せて No.273 「恋の町札幌」~昭和47年(1972年)5月リリース
ずっと長い間、勘違いをしていた。今回の『恋の町札幌』という曲は、札幌オリンピックより、もっと以前に世に出た曲だと思っていた。ところが、オリンピック開催後の5月に発売されていたのだ。(今回、リリースの日にちまでは調べきれなかった)
それより8年前の東京オリンピックの年に、『東京ブルース』『東京の灯よいつまでも』など、東京のつく曲が作られ、ヒットしたのは知っていた。ハマクラ先生は、以前から札幌が好きで、石原裕次郎に札幌の曲を歌わせたいと思っていたそうだ。この時期でなくても、この曲はヒットしたと思うが、なかなか良いタイミングで出してきたものである。
この曲のヒットから19年後の、平成3年(1991年)6月6日には、札幌羊ヶ丘展望台の、あのクラーク像の隣に、『恋の町札幌』の歌謡碑が建てられた。譜面と歌詞が刻まれた歌碑の上には、向かって左にハマクラ先生、右に石原裕次郎の胸像が置かれている。
裕次郎さんが穏やかな笑顔なのに対し、ハマクラ先生の方は、やや緊張した表情を見せている。先生のファンとしては、あの楽しげな笑顔の像を作ってもらいたかった気もする。
なかなか詞の内容が難解な曲ではある。この曲の中の「私」の恋は、おそらくもう終わってしまっていて、それを心静かに述懐しているのではないかと推測するが、本当のところはわからない。
「どうぞ、どのようにでも解釈なさい」と、ハマクラ先生が笑って見ていてくださるのかも知れない。
さて、裕次郎さんはどのような解釈で歌われたのか…。
「恋の町札幌」 浜口庫之助:作詞・作曲 小谷充:編曲 石原裕次郎:歌
時計台の 下で逢って
私の恋は はじまりました
だまってあなたに ついていくだけで
私はとても 幸せだった
夢のような 恋のはじめ
忘れはしない 恋の町札幌
はじめて恋を 知った私
やさしい空を 見上げて泣いたの
女になる日 だれかの愛が
見知らぬ夜の 扉を開く
私だけの 心の町
アカシヤも散った 恋の町札幌
淋しい時 むなしい時
私はいつも この町に来るの
どこかちがうの この町だけは
なぜか私に やさしくするの
恋人なのね ふるさとなのね
ありがとう私の 恋の町札幌
イントロと間奏に使われている、あのストリングスの美しい音色。私の友人などは、歌謡曲の中で、最も美しい間奏だと言い切っている。編曲家、小谷充の素晴らしい仕事である。
石原裕次郎の、その後の昭和52年(1977年)のヒット曲『ブランデーグラス』では、作・編曲を手掛けているが(作詞:山口洋子)、あの美しい女性コーラスは、ずっと印象に残っている。
同じく裕次郎の、またその少し前昭和50年の『青い滑走路』(作詞:池田充男、作曲:鶴岡雅義)の、曲に絡んでいく(おそらく)鶴岡雅義のレキトン・ギター、そして女性コーラスが素晴らしく、私にとっては小谷充の編曲の中で最も好きな曲だと言える。
高田恭子の『みんな夢の中』、田端義夫の『十九の春』、ちあきなおみの『四つのお願い』、トワ・エ・モアの『或る日突然』、藤圭子の『新宿の女』、布施明の『愛は不死鳥』、八代亜紀の『なみだ恋』などなど、小谷充の、その編曲でのヒット曲の数は夥しい数に上る。
平成2年(1990年)11月に、寝タバコによる火災で、56歳でこの世を去ったことが、返す返すも残念でならない。
ところで『恋の町札幌』には、川中美幸とのデュエット・バージョンがある。これは石原裕次郎の死後に、コンピューターを駆使したレコーディング技術によって作成されたもので、とてもよくできているが、何か不思議な感じのする作品である。
最近では、ナット&ナタリー・コールのデュエットなど、国内外を問わず多く行なわれているようだが、このような試みは、ファンとしても賛否両論があると思う。私は、素人がカラオケで、好きな歌手とのデュエットを楽しむ程度のことは問題ないが、バーチャルな音楽世界をさらに展開していくことは、あまり好ましくないことだと考えている。
-…つづく
第479回:流行り歌に寄せて NO.274 「どうにもとまらない」~昭和47年(1972年)6月5日リリース
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