第479回:流行り歌に寄せて No.274 「どうにもとまらない」~昭和47年(1972年)6月5日リリース
この『どうにもとまらない』が流行っていた昭和47年(1972年)、私は高校2年生だった。10月に行なわれた体育祭、私たちのブロック(三つの学年のクラスを縦割りで構成)のマスコット(竹ひごなどを組み、ボール紙、模造紙などで作る巨大な張りぼて)は、この曲を歌っている時の山本リンダにしようと言うことになった。
切れ目の入った黒いパンタロン、赤いブラウスによるヘソ出しルック。一部の女子生徒は眉を顰めたが、たいがいの生徒が「まあ、流行っいるし、面白いからええと思うよ」ということになった。
デザインを決め、竹ひごを組みながら作っていったのだが、模造紙などを貼りほぼ完成という頃だった。その日は、大変風の強い日で、何せ校庭で作業をしていたので、風に煽られて、土台として置いていた石も飛ばされ、山本リンダ像は校庭の中を七転八倒してしまった。
もんどり打って、風に流されていく姿を見て「もうどうにもとまらない」と言ってはしゃいでいた男子生徒に、涙目で「やめて! だれか、とめて!」と訴えたのが、最初は眉を顰めたが、作成の段になって、もっとも頑張っていた女子生徒だった。
「『やめて!』『とめて!』って、辺見マリじゃないでよう、あれは山本リンダだて」と軽口を叩きながらも、その男子生徒は全力で走り、山本リンダ像の転がるのを止めに行った。
残念ながら、山本リンダ像は満身創痍。生徒たちは、体育祭の日までの間に急ピッチで、修復作業に取り掛かった。今でも『どうにもとまらない』を聴くと、このことを懐かしく思い出す。
さて、山本リンダは、昭和41年9月20日、15歳の時に『こまっちゃうナ』でレコード・デビューをし、いきなり大ヒットとなった(当コラムNo.145)。その後もコンスタントにシングル・レコードを18枚出し続けてはいたが、デビュー曲のようなヒットにはならなかった。
その間、彼女はテレビ『仮面ライダー』のマリ役として出演するなど、女優として活躍したり、バラエティ番組などにも登場していた。ただ、歌の世界ではパッとしない時代が5年以上は続いたのである。
最初はミノルフォン、次にハーベストとレコード会社を変えてゆき、その後、キャニオン・レコードに移籍した。
キャニオン・レコードに移籍後最初の曲は、山上路夫:作詞、三木たかし:作・編曲の『白い街に花が』という、しっとりとしたメロディアスな作品だった。今聴いてみると彼女の別の魅力を感じさせる素敵な曲なのだが、ヒットには繋がらなかった。
そして、移籍後の第2弾は、革命的なほどに大きくイメージを変えた『もうどうにもとまらない』だったのである。
「どうにもとまらない」 阿久悠:作詞 都倉俊一:作・編曲 山本リンダ:歌
うわさを信じちゃいけないよ
私の心はうぶなのさ
いつでも楽しい夢を見て
生きているのが好きなのさ
今夜は真っ赤なバラを抱き
器量のいい子と踊ろうか
それともやさしいあのひとに
熱い心をあげようか
あゝ蝶になる あゝ花になる
恋した夜は あたししだいなの
あゝ今夜だけ あゝ今夜だけ
もう どうにも とまらない
港で誰かに声かけて
広場で誰かと一踊り
木かげで誰かとキスをして
それも今夜はいいじゃない
はじけた花火にあおられて
恋する気分がもえて来る
真夏の一日カーニバル
しゃれて過ごしていいじゃない
あゝ蝶になる あゝ花になる
恋した夜は あなたしだいなの
あゝ今夜だけ あゝ今夜だけ
もう どうにも とまらない
この曲は、いわゆる「曲先」で都倉俊一が最初に曲を書き上げた。それに詞を載せた阿久悠が、曲のタイトルを当初は『恋のカーニバル』としようと考えていたという。リズムがリオのカーニバルを彷彿させるものだったからだろう。
けれども、考えを変えて『どうにもとまらない』で行こうとなったそうである。阿久悠は後日、「タイトルが『恋のカーニバル』だったら、この曲の運命はまったく変わっていただろう」と述懐していたそうだ。
山本リンダも、曲を貰った時に、その良さに感激し、「これでダメなら歌手はもうダメ」と感じ、あの衣装と「ヘソ出し」スタイルは、彼女自身が提案したほど、この曲に対する意気込みはすごいものであった。
『どうにもとまらない』はオリコン集計で、累計30万枚を超える大ヒットとなり、週刊チャートも3位まで上昇した。そして、この年「第14回日本レコード大賞作曲賞」と「日本歌謡大賞放送音楽賞」を受賞し、同年の「第42回NHK紅白歌合戦」に5年ぶりの出場を果たした。
その後、阿久、都倉、リンダ・トリオは、「狂わせたいの」「じんじんさせて」「狙いうち」「燃えつきそう」「きりきり舞い」とヒットを飛ばし続ける。
当時高校生だった私たちにとっては、彼女は刺激的すぎるほどの存在だったと思う。歌詞も、曲調も、多分に煽動的だった。
その妖艶なイメージをマスコットに反映させたかったのだが、できあがった作品は、件の女子生徒をはじめ多くの生徒たちの懸命な作業にも拘らず、その衣装の色の感じでかろうじて山本リンダだと想像できる、へんてこな代物だった。
そして、他のブロックからも相手にされず、体育祭の競技成績もかなり低調だった記憶がある。
-…つづく
第480回:流行り歌に寄せて No.275 「芽ばえ」~昭和47年(1972年)6月5日リリース
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