第392回:流行り歌に寄せて No.192 「今は幸せかい」~昭和43年(1968年)
佐川満男。不思議な雰囲気を醸し出す人である。昭和30年代、20歳前から音楽の世界に入り、昨年80歳を迎えているので、60年以上のキャリアを持つ。
最初は、大阪は難波の坂町(阪町?)にあるジャズ喫茶「銀馬車」のオーディションに合格して「クレイジー・バブルス」というバンドに入る。そこで内田裕也とのツイン・ボーカルを組んで人気を博した。
昭和33年4月1日に神田共立講堂で行なわれた「東西対抗ロッカビリィ大会」で知り合った堀威夫(後にホリプロを創立)に誘われて「ザ・スイング・ウエスト」に加入するために上京をする。
昭和35年4月、ニール・セダカが来日した際、ザ・スイング・ウエストが、彼のバンドを担当した縁から、何と本人が歌う予定で未発表だった『二人の並木道(Walk with me)』を、セダカから佐川はプレゼントをされるのである。
この曲で、ビクターレコードから「佐川ミツオ」の名前でデビューを果たした。昭和35年7月5日のことである。
その後は、佐伯孝夫:作詞 佐々木俊一:作曲 児玉好雄:歌の『無情の夢』、中山晋平:作詞 吉井勇:作曲 松井須磨子:歌の『ゴンドラの唄』などの、歌謡曲の古典と言われる曲を、寺岡真三の編曲でカヴァーして、ヒットを飛ばした。
そして、昭和36年の第12回NHK紅白歌合戦に、宮川哲夫:作詞 渡久地政信:作・編曲の『背広姿の渡り鳥』で初出場した。
その後は、あまり大きなヒット曲に恵まれなかったが、コロムビアレコードに移籍しての第一弾、久しぶりの大ヒット曲となったのが、今回の『今は幸せかい』である。
「今は幸せかい」 中村泰士:作詞・作曲 小林亜星:編曲 佐川満男:歌
<歌詞削除>
詞の内容が、あまりに未練たっぷりなので、少し面食らってしまうほどである。
作詞・作曲ともに中村泰士(たいじ;一時やすじと読ませていた)。この人は、もともと「美川鯛二」という名前で『野良犬のブルース』『赤いヨットは死んでいた』などの曲を歌っていた歌手だったが、売れることができず、この『今は幸せかい』あたりから、曲を作る側に回った。
作曲が主だが、この曲の他にジュディ・オングや、前出のザ・スイング・ウエストなどに提供した曲など、作詞ともに担当した作品も少なくない。
その後は、細川たかしの『北酒場』、ちあきなおみの『喝采』、五木ひろしの『そして…めぐり愛』、桜田淳子のほとんどの曲などを手掛けた有名な作曲家となっていく。このコラムにも何回か登場することだろう。
今回調べてみる中で、『今は幸せかい』は、藤すすむ:作詞 橋本まこと:作曲とクレジットされたものがいくつかあったが、これはこの当時の中村泰士のペンネームなのだろうか。詳しいことはわからなかった。
佐川満男と中村泰士は、ロカビリー時代からの旧知の中で、美川鯛二として歌手デビューするオーディションに佐川は内田裕也とともに立ち会ったということである。
現在でも二人は仲が良く、中村の喜寿や作曲家50周年、傘寿などの、記念コンサートには、佐川が必ずゲストとして顔を見せている。
さて、『今は幸せかい』を発売当時、あまり日本人の歌手にはいなかった、ショート・ボックス・スタイルという、お洒落なラウンド髭は、少しキザな感じがしてとてもかっこよく、さすがに伊東ゆかりを射止めた男性だと思った。
私自身は、その翌年に発売された、橋本淳:作詞 筒美京平:作・編曲の『フランス人のように』という曲は、さらに彼のキザな感じが打ち出されていて、秘かに憧れたものである。
長いことカツラを着用していたそうだが、今の光頭、ラウンド髭は渋い感じでよく似合っている。「科捜研の女」シリーズで、穏やかな住職を演じたときは、年齢を重ねた温かみのようなものを感じることができた。
-…つづく
第393回:流行り歌に寄せて No.193「山谷ブルース」「友よ」-その1~昭和43年(1968年)
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