第736回:生死の境
引退してからもう2年になります。
教職員として、教えること自体が嫌になったわけではありませんが、大学内の軋轢、膨大な事務仕事、なんとか委員会の役員、レポート作成、それに加えてほとんど醜い様相になっている教授会や学内の政治的関係などなどには、もう付き合い切れない…うんざりしてきた時期でした。
早く言えば、くたびれてきたのです。若い先生などは、この大学に職を得た喜び、それに何と言ってもエネルギーの量が多く、ゴタゴタした学内の問題、他の先生たちとの関係など気にならないのでしょうね。
引退後、同僚の先生たちとはほとんど関係が切れ、私もパーティーに出かけなくなりました。唯一、週1回、大学の図書館に行き、インターネットを使い(私たちの住んでいる山裾に携帯電話の電波が届かないのです)、ゴソッと本やDVDの映画を借りてくるだけが、かろうじて大学と繋がっている部分です。
すでに職を離れても、お互いに年に何度か連絡を取っている同僚の先生が二人います。一人はドイツ人でドイツ語の教授だったガブリエラ先生です。彼女は引退直後に卵巣癌になり、デンヴァーの専門医の執刀で危機を乗り越え、完全と言えるくらい回復しました。同じ卵巣癌で従姉妹が亡くなっているので、ガブリエラ先生のことは、かなり心配しました。
彼女の偉いところ、凄いところは、回復後、癌の早期発見のキャンペーン、ボランティアに打ち込んだことです。抗がん剤ですっかり禿てしまった姿を晒し、ポスターのモデルになり、一時期、ツルッパゲのガブリエラが微笑んでいる写真が町中に溢れました。その後も病院でボランティア活動を続け、大学で教えている時の方が楽だったといういうくらい、毎日忙しそうに活躍しています。癌の危機は完全に乗り越え、今では太りすぎ、コレステロールが高く、血圧も高くなり、「こっちの方が危なくなってきたわ…」と明るく笑っています。
全く逆のケースがエスター先生です。エスターは英文科、児童文学の教授でした。ガブリエラ先生と同じ卵巣癌が見つかり、ガブリエラ先生と同じようにデンヴァーの専門医のところで手術を受けましたが、体質の違いか、手術した時にすでに転移していたのか、手術後2年の闘病生活、そしてホスピスを経て、静かに息を引き取ったのでした。
そう言えば、二人ともとても日本に興味があり、何度か日本に行っているし、日本人の友達も幾人か持っていることに気がつきました。エスター先生は私のピンチヒッターとして、私の日本語の生徒さんの日本ツアーを引率して貰ったこともあります。
エスター先生が癌の末期症状に陥った時、彼女は他の人に知らせたり、世間に溢れている怪しげな癌の治療法を探ったりせず、自分の運命を冷静に受け入れたようです。死を待つだけのホスピスでも、その日その日を静かに過ごした…と、残されたダンナさんのボブが語っていました。そのように自分の運命を受け入れるのは、とても勇気の要ることだと思います。エスター先生の冥福を祈らずにはいられません。
そこへ、隣のキャロルから電話があり、ダンナさんのバッドが潰瘍で入院した。しかも、相当悪化した状態での手術は困難を極めたそうで、病院のスピーカーで、「何号室の患者、“コード・ブルー”(瀕死の状態、いつ死んでもおかしくない状態)。医局員はいつでもその病室に駆けつける準備をせよ…」とのアナウンスが流れ、いつも陽気なキャロルは、アレッ、それバッドがいる病室ではないかと気づき、全身から血の気が引いたそうです。即、手術室に運び込まれ、3時間に及ぶ大手術でかろうじてバッドは命を取り留めたのでした。
この話を同じ病院でボランティアをしているガブリエラ先生にしたところ、緊急治療室も病室も重症の新型コロナ患者で満員、塞がっていて、他の重病人を入れるスペースがなく、バッドは手術を受けることができただけ幸運だったと言うのです。ところが、キャロルによれば、バッドはその10日も前から、激しい痛み、不調を訴え、3軒もの病院に行っているのです。いずれもお医者さんは、おそらくベッドに空きがないことを理由に、“様子見”とタライ廻しにしていたのです。そして最後、あわやというところ、本当に手遅れになるホンの紙一重で、手術をして貰えたと言うのです。
“手遅れ”はお医者さん、強いてはアメリカの医療システムが作り上げた“言い訳”なのです。バッドは手術後も緊急医療室に入ったままで、再手術の必要があり、それを施設の整ったデンヴァーでしなければならない状態です。ですが、デンヴァーの病院も新型コロナ患者で満員御礼の状態で、手術室だけは空いているが、手術後、彼を収容する緊急医療室に空きがないから来てもらっても困ると言うのです。
病院のベッドを塞いでいる重症コロナ患者の90何パーセント(ガブリエラ先生によれば100%ですが)は、ワクチン接種を受けていない人たちなのです。そのために、バッドはあわや死にかけ、実際にたくさんの人が死んで行っているのです。ワクチン接種を拒否している人は、間接的に他の重病人を殺しているようなものです。
エスター先生はウチのダンナさんと同じ年、バッドの方は、来年から引退し、彼が大好きなアウトドア三昧の生活に入ることを楽しみにしている66歳です。
ウチのダンナさん、いつ逝っても悔いはない…とは言っていますが、ガブリエラ、エスター、バッドを身近に感じているのでしょう、「オイ、俺たちもいつ逝くかもしれないから、もっと真剣に、マジメに、一生懸命遊ばなきゃならないな~」と、奇妙な屁理屈を述べています。
元々、何でも遊びに変える天才のダンナさん、エスター先生の死、そして隣のバッドの大手術のニュースに接し、シバレル冬空の下、外で薪割りができる喜びに浸っているみたいなのです。
「オイ、俺、こんなこと、いつまでできるのかな~」と言い、どう言うわけかマサカリを振り回す時にいつも口ずさんでいる、「マイケル ロー ザ ボート アショア、ハレルーヤ……」と調子をとりながら薪割りをしています。
-…つづく
第737回:冷戦の危機
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