第34回:1974年9月 東京
更新日2004/09/09
国電の初乗り30円。私鉄の初乗り40円。バスは1回40円。銭湯が75円。立ち喰いの月見そば120円。四畳半台所つきトイレ共用アパートの家賃12,000円。30年前、私が上京した当時、東京都内の物価はこんな感じだった。
9月初旬の暑い日だった。一浪の受験生である私は、当時実家のある愛知県から新幹線に乗りひとり上京し、東京駅に降り立った。荷物は大小二つのバッグと、ガットギターが入ったギターケース。これから始まる東京での生活に思いを寄せ、駅の案内板を真剣な目でたどりながら構内を歩く、立派なお上りさんだった。
国電中央線に乗り換え新宿へ。西武新宿線の井荻駅近くにアパートを借りた私だったが、その日は高田馬場で西武線に乗り換えられることを知らなかった。国電の新宿駅から西武新宿駅まで重い荷物を抱えて、強い陽射しの下を歩いた。
途中、歌舞伎町のど真ん中に入ってしまう。昼間から猥雑さと、独特の淫靡な香りを放つこの街に、「とんでもないところだ。油断をしていると呑み込まれそうだ」と身構え、足早に歩いた(その時の予感は当たっていて、それから2年もしないうちに自ら進んで、この街に呑み込まれていった時期があった)。
西武新宿駅に着き、井荻までの切符を買う。60円だった。駅員さんに説明を受け、途中まで急行で行くのも、各駅停車で行くのも変わらないことを知る。「因みに急行券はいくらですか?」と聞くと、怪訝そうな顔をして「そんなものはないですよ」と答えられた。
当時西武線は、肌色と濃い桃色を基調にした旧車両と、明るい黄色にゴールドのラインの入ったきれいな新車両が走っていた。私は新車両がとてもかっこいいので、これは急行電車に違いないと思いこみ、先に新車両が入って来たが、見送って乗らなかった。電車は発車した。
たまたま先の駅員さんが私の横を通るとき、「あれ、今の電車に乗らなかったのですか?」と声をかけてこられた。私は、「ご案内いただいた通り各駅停車で行きますから」と答えると、「お客さん、今の各駅停車でしたよ」とやれやれという表情。
私が「あんまりかっこいいので、てっきり急行電車だと思いましたよ」と言うと、駅員さんは何か言い出そうと口を開きかけたが、小さくかぶりを振り軽く会釈してその場を去った。私は次の各駅停車に乗り込んだ。
アパートは井荻の駅から歩いて2分のバス通り沿いにあった。私は1階に住む大家さんに挨拶をしてから鍵を借り受け、2階に上がってすぐ右側にある自分の部屋に入った。まず出迎えてくれたのは強烈な西日と、バスが通るときの大きなエンジン音だった。
それでも私は、四畳半家賃12,000円也の自分として初めての城を持てたことが、何よりもうれしかった。ギターを取り出しチューニングをしてから、陽水の歌を数曲、隣の部屋のことを気遣いながら小声で歌った。そして横になると、その日上京して初めに買った文庫本、野坂昭如・五木寛之の「対論」を読み始め、いつのまにか眠ってしまった。
当時の井荻駅は、まだまだ環八が地上を走っており、時刻によっては、踏切をはさんで車は渋滞していた。駅近くの商店街には、何か懐かしいようなにおいがあって、私はすぐにこの街が好きになっていた。
商店街に入ってすぐにある銭湯に行くのが楽しみだった。小学校1年生以来、1度も行ったことのなかった銭湯は広く、のんびりできた。シャンプーをしながら、鼻歌でフォークを歌ったりした。当時コイン・ランドリーができる少し前の時期で、脱衣場の中に洗濯機が2台ほど置かれており、よく利用した(その30年前に比べ、今都内の銭湯の数は半分になったと聞く。半減もしてしまったと考えるか、まだ半分も残っていると考えるか、微妙なところだろう)。
独り身の自由を満喫しながらも、知人がひとりもいない生活は当初さすがに応えた。高田馬場にある予備校での初日、喫茶コーナーで紅茶を飲み、スプーンでかきまぜるときカップに当たるコツンという音さえ、とても寂しく響いたことがある。
今、上京後一日二日の家計簿(当時はまめにつけていたようだ)を見ると、寄席1,000円、早東戦指定席800円などとある。確か、新宿紀伊国屋に行ってホール落語を観たり(トリは柳家小さんだった記憶がある)、神宮球場で六大学野球を観戦したりと、しきりに外出している。
これは、とにかく東京に出てきたのだから東京の文化に早く触れたいという思いと、寂しさを紛らわそうという思いが、相半ばしていたのだろう。18歳の上京したての自分の心の揺れがわかって、今考えると若かったんだなあと微笑ましくなる。
その後、証券会社でアルバイトをしたり、新聞配達をしたりしているうちに友人が少しずつ増えていった。それはとてもいいことだったが、さらにいろいろと社会勉強を重ね、そちらの方が面白くなってしまい、だんだんと受験勉強から離れていってしまった。こちらの方は、今考えると後悔しきりである。
第35回:Take
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