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■イビサ物語~ロスモリーノスの夕陽カフェにて
 

第83回:税金より怖い社会保険料

更新日2019/09/05

 

小さな事業を締め付けるのは、税金より社会保険料=セグリダ・ソシアル(seguridad social;健康保険と失業保険を含む)だった。洗い場のカルメンおばさんとウェイトレスのアントニアに払う賃金は知れたもので、どうにか商売を成り立たせるのに必要な経費として受け入れなければならない。だが、事業主が支払う社会保険の負担金が、ほとんど最低賃金と同額かそれ以上になる。だから、丸々4人分の給料を払って二人雇っているようなものだった。

労働者の権利を守ることにヤブカサではないつもりだが、彼らは半年働き、後の半年は失業保険を貰うのを当然の権利と考え、何年にも渡って半年シゴトを享受しているのだ。自然、事業主が支払う社会保険料もむやみに高くなる道理だ。ひょんなことから自分の店を持つことになったが、本来なら、私は当時貧乏旅行者の定番だった北欧で、カルメンおばさんと同じ皿洗いをしてるところだったのだ。社会保障を充実させるには、誰かがその費用を払わなければならないことは、理屈として充分に理解しているつもりだった。

スペインでは10日間の臨時雇い期間を1日でも過ぎれば、首を切ることが簡単にできなくなることは全く知らなかった。それで一度苦い経験をした。

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Guadixにある洞窟住居、観光地になっている

アンダルシアの洞窟住居で有名な村、グアディクス(Guadix)から来た大人しい青年、パコをウェイターとして雇った。機敏に動き回るタイプではなかったが、言いつけたことはきちんとこなすし、お客さんへの対応も丁寧だった。ところがある日、クダンの彼、パコがしゃがみ込み、冷蔵庫に頭を突っ込んでジーッとしているのを見つけ、「オイ、パコ、お前の脳みそが凍ちゃうぞ。それに冷蔵庫の中のモノが腐り出すではないか…」と注意したところ、ハッと夢から覚めたようにこちらに顔を向け、「冷蔵庫の中からキリストの声が聞こえたんだ…」と、焦点のボケた視線を送ってよこしたのだ。 

神の声が聞えるのは珍しいことではない…ようだ。米国ペンシルベニア州のヴィラノヴァ(Villanova)大学の女性バスケットボールチームのスーパースター、シェリー・ペンファーザー(Shelly Pennefather)は日本のチームと20万ドル(約2,130万円)の契約を結んでいながら破棄し、神からオヨビがあったとして、戒律が厳しいことで有名なヴァージニア州の修道院に入ってしまったのだ。

パコがキリストの声を本当に聞いたかどうかは本人以外に分からないことだ。その日、パコは多少朦朧と雲の上を歩いているようにテーブルと台所を行き来していた。そのうち、カウンターの後ろの壁に向かってジーッと立ち尽くしていたり、お客さんが注文した飲み物を手にしたまま、庭のイチジクの木を見上げたりすることが重なった。いつも「神様が自分に話しかけてくる」と言うのだ。こりゃオカシイ、狂っていると思い始めたが、私の弱さから、キッパリとそんなんじゃこれから忙しくなる夏場のシゴトはできない、辞めてもらうと切り出せないまま10日間の試用期間が過ぎてしまったのだ。

2週間も経った頃だろうか、私はイビサに一人しかいない精神科医のところへパコを連れて行ったところ、即入院させなければならないと宣言されたのだった。精神病棟はこんなところがイビサにもあったのかというほど広々とした瀟洒な建物で、中庭には小さな噴水があり、それを囲むように涼しげな回廊がとりまいていた。

ここなら、イビサの市街にあるピソ(アパート)より遥かに静かだし、ほとんど別荘だ…と思ったことだ。それで私の義務は終わったと半ば安心していたところ、翌朝、しかも早朝に、まるで犯罪事件のように、ドアをノックすると言うより、叩きつける音で目を覚まされた。

パコの母親、父親、それに郎党が顔を揃えていたのだ。そして、母親は泣き落とし戦術、ハラハラと泣き、彼がいかに良い息子で、一家を支える柱、唯一の稼ぎ頭であったかを訴え、父親と郎党のイトコかハトコは、パコはすでに10日以上働いていたのだから、店を閉めるまでの向こう6ヵ月の給料を貰う権利がある、その間のセグリダ・ソシアル(社会保険料)もお前が支払わなければならない…云々と大声でまくし立てるのだった。

その時、私は10日間の試用期間の重大さに気づいていなかった。ただ、そんな馬鹿なことがあるもんかと、パコの郎党たちの言い分を信用しなかったのだ。ところが、同業者仲間に相談したところ、皆が皆、「お前はそんなことも知らずに人を使っていたのか?」と呆れ顔で、10日法を説明してくれるのだった。道理でスペインに家族だけでやっているショーバイが多いはずだ。家族なら別の意味のシガラミがあるにしろ、そんな法律に縛られこともなく営業できるのだから…。

人伝に紹介された女性の弁護士にも相談した。どうもパコの郎党の言い分の方に分があり、労働者の権利を守る法律のもとでは、半年分の給料、それにクリスマスと6月18日のボーナス、さらにその期間の社会保険料を支払わなければならないようなのだ。

帰り際に、他のレストランはどうしているのか訊ねたところ、ニヤリと微笑み、「そりゃ、たくさん人を使っているホテルや大きなレストランは、いつも同じ問題を抱えているわよ。でも、尽きるところはお金の問題、裁判を抱えても充分にやっていける財力のある大手は、最終的に一個人の労働者にわずかなお金で妥協させるか、もしくはダラダラと裁判を続け、訴えた方、労働者がアンダルシアかどこか国もとに帰り、訴訟が消滅するのを待つ手を使う企業主も多いのよ…」と言うのだ。しかし、私のような至極小さなトーちゃん商売では、どうにか払えるなら、半年分の給料と社会保険料、2回のボーナスを法の命ずるままに支払い、早く忘れた方がよい…とのご忠告だった。

結果、高い授業料を払い、スペイン新政権の下で弱小企業が人を使うことの難しさを学んだのだった。当時、スペインの失業率は30%近くになり、25歳未満では50%を超える失業者の群れがいた。しかし、就業者を保護し過ぎることは、雇用促進とは相反することになる。私のような超弱小企業とも呼べないカフェテリアでは、そんなリスクを背負って、人を雇うことに二の足を踏むことになるからだ。スペインに大家族主義の企業が多い由縁だ。

大家のゴメスさんの鉄材卸業は、恐らくイビサで一番大きな建設鉄材屋だろうけど、娘と娘婿だけで切り回し、大きな注文の発送や棚卸しの時、臨時雇いで人を使うだけの家族企業だった。そのゴメスさんの忠告は、「お前も、使えるセニョリータを早く見つけ、結婚し、子供をドンドン作らなきゃだめだ。赤ん坊はすぐに大きくなり、7、8年も経てば、充分店で使えるようになるゾ」というのものだった。

パコがキリストの声を聞いた事件から、結果的に十数年イビサに住んでいたから、セニョリータを娶り、子供を作る時間はあったことにはなる。ゴメスさんの忠告は的を得ていたと言えなくもない。

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定番の生ハムのボカディージョ<Bocadillo de Jamon Serrano>

10月、11月のシーズンオフになると、島のウェイター、ウェイトレス、ホテルの使用人などが長い列を作って失業保険局の前にズラッと並ぶ。彼らに恥じる風は全くなく、まるでお花見のようにボカディージョ(bocadillo;スペイン風サンドイッチ)に噛り付き、ビールを飲み、明るく雑談しているのだった。その中に知り合いもたくさんいた。向こうから大声で、「お前はパロ(paro;失業手当)を貰わないのか? 金持ちは違うよな~」などと呼び掛けてくるのだった。

一度、パコがそんな列に並んでるのに出くわした。パコは気楽に私を呼び止め、「あれから、『カサ・デ・バンブー』はどうだった? 良いシーズンだったか?」と訊き、失業保険が降りる6ヵ月の期限が終わったら、アンダルシアのグアディクスに家族皆で帰るつもりだ、とても良い洞窟住居を安く買ったからね…と言ったのだった。もちろん、店や私に迷惑を掛けたという意識のカケラも見せなかった。

全くわだかまりのない彼の態度を前にして、いつまでも彼の給料とボーナス、社会保険料を支払わなければならなかったことに拘っている自分がとても間抜けに思えた。

-…つづく

 

 

第84回:テキヤのトム

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佐野 草介
(さの そうすけ)
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海から陸(おか)にあがり、コロラドロッキーも山間の田舎町に移り棲み、中西部をキャンプしながら山に登り、歩き回る生活をしています。

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