第397回:流行り歌に寄せて No.197 「スワンの涙」~昭和43年(1968年)
「失神」。オックスを語るとき、当時、彼らを聞いていた人々には、まず最初に出てくる言葉である。
オックスのメンバーが演奏中に、あまりに音楽に入り込んでしまうため、気分が高揚し、恍惚の状態で倒れ込んで(失神して)しまう。それを聴いていた女性ファンも、その姿に陶酔して失神してしまう。こんな現象だった。その女性ファンのほとんどは、女子中高生なのである。
当時中学1年生だった私は、この現象に何かとても性的な意味合いを感じ、かなりドキドキしたことを覚えている。もともと不良の音楽だと決めつけられていたグループサウンズの連中から、そんな「いかがわしい」目に会わされることは断じて許せないと、年頃の女の子持つを親など「大人」たちは激しく憤った。
「失神バンド」のコンサートに、学校としても禁止令を出して厳しく取り締まっていたが、私たちの隣町の数人の女子中学生グループが、その網をかいくぐってコンサートに行ってきたという噂が飛び交ったりした。彼女たちは同世代のちょっとした英雄になった。
野口ヒデトと赤松愛の2トップ。ローリング・ストーンズの『テル・ミー』の歌唱をはじめ、ワイルドな熱唱で「失神」の火付け役となった野口。脱色(今でいう茶髪)のマッシュルーム・カットがとても可愛らしく似合っていた、元祖カワイイ系アイドルと言える赤松。好対照の二人が、このバンドを牽引していった。
デビュー当初は、赤松の愛くるしさの方が多くのファンを得ていたが、徐々に野口の人気が高まり、一時期はGSのスーパースターとして、ジュリー、ショーケン、ヒデトと並び称されるほどになった。
ただその頃の私には、彼らに対し、失神も含め、ステージ上でエネルギーを出し切っているからなのか、とても疲弊している印象が強かった。「この人ら、えりゃあ、たるそうに見えるでかんがね」といつも思っていたのだ。
「スワンの涙」 橋本淳:作詞 筒美京平:作・編曲 オックス:歌
君の素敵な ブラック・コート
二人で歩く 坂道に
こぼれるような 鐘の音
誰も知らない 二人の午後は
港が見える 教会の
小さな庭で お話ししましょう
*いつか君が 見たいと言った
遠い北国の 湖に
悲しい姿 スワンの涙*
(セリフ)
「あの空は あの雲は 知っているんだね」
離れたくない 二人の午後は
ブラック・コーヒー 飲みながら
街のテラスで お話ししましょう
(*~* くり返し)
今回、詞の内容を改めて見て気づいたのだが、私は歌い始めの部分をずっと「君の素敵なフロック・コート」と勘違いして覚えていた。考えてみれば、フロック・コートは男性用の礼服なので、そんなことは常識としてあり得ないが、服装の知識など全くない私は、そんな過ちをしていた。
もう一度読み返してみて思ったことは、詞の意味がよく分からない、歌われているシーンが全く見えてこないということである。通常の歌詞、サビの部分で繰り返し歌われる歌詞、そしてセリフの部分がどうにも繋がらない。
通常の歌詞では、ブラック・コート、ブラック・コーヒーという二つの黒い小道具が使われ、教会の小さな庭や、街のテラスでお話ししましょうと、明るく語りかける。一転、湖に浮かぶ白鳥の悲しい涙の姿。そしてセリフ。
橋本淳は、筒美京平のメロディーを得て、曲全体を感覚で捉えて欲しいと考えていたのだろうか。それを、当時の女子中高生ファンは四の五の言わずに受け入れたということなのか…。
当時の私がそれに気づき、同級生でファンの女の子に「おかしいと思わんの?」と質問したりしたら、一瞬横目で侮蔑の表情を浮かべられ、後は完全に無視されたに違いない。
さて、赤松愛は、その後間もなくオックスを脱退し、一時「ジョン・レノンの弟子になる」と渡英し、しばらくロンドンに滞在していたが帰国し、家業の大阪にある鉄工所を継いだと言われている。
野口ヒデトは、GS解散後しばらくは『野口ひでと』と表記を変えてポップス調の歌謡曲を歌っていた。その後、昭和50年には『全日本歌謡選手権』(プロ・アマ合同参加で歌唱力を競い合う番組)に背水の陣で挑戦し、10週勝ち抜きのグランドチャンピオンとなり『真木ひでと』と改名をして、演歌歌手として再デビューを果たした。
演歌デビュー曲『夢をもういちど』は作詞が山口洋子、作曲は浜圭介のヒットメーカーコンビで作られた曲で、オリコンの全国チャート9位まで売り上げを伸ばした。
私はこの曲を最初に聴いたとき、歌い出しがポール・アンカの『君こそわが運命』に酷似していることに気づいて、かなり得意な気分になった。そこに作り手の緻密な狙いがあることを考えもしないで。
-…つづく
第398回:流行り歌に寄せて No.198 「ブルー・ライト・ヨコハマ」~昭和43年(1968年)
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