第484回:流行り歌に寄せて No.279 「せんせい」~昭和47年(1972年)7月1日リリース
園まりさんの訃報に接した時は、とても悲しい思いがした。病気と闘いながら、少しでも恢復した時にはステージに立つという、プロの歌手としての矜持を持った方だった。
これで、スパーク三人娘も一角を欠き、中尾ミエと伊東ゆかりの二人となる。元祖三人娘(ジャンケン娘)は、江利チエミ、美空ひばりが、ずいぶん昔に亡くなっているが、雪村いづみのご健在ぶりは、ファンの心を励まし続けている。
花の中三トリオと呼ばれていた三人も、今はもう前期高齢者となった。昔日の感がある。その三人の中で、最も早くデビューしたのが、森昌子だった。当時のキャッチフレーズは「あなたのクラスメート」。遠いところにいるアイドルではなく、身近で親しみやすい存在だと言いたかったのだろう。
昭和46年10月から始まった、歴史的なオーディション番組、日本テレビ『スター誕生!』の初代グランドチャンピオンである。13歳の彼女が歌った『なみだの連絡船』の歌いっぷりは、今でも語り継がれている。
引っ込み思案で、人の前に立つことを不得手としていた彼女を、何とか宥めすかせてオーディションに出場させたのは、彼女の叔母だった。「洋服を買ってあげるついでだから」と言って誘ったという。
グランドチャンピオンになって、多くの芸能プロダクションが勧誘にやってくる。父親は芸能界入りには大反対だったが、家が貧しく、母親が病弱だったため、家計を助ける意味もあると昌子自身が父親を説得し、ホリプロダクションに所属することになった。
デビュー曲である『せんせい』は、阿久悠と遠藤実というコンビ。レコード会社、徳間音楽工業の力の入れようが理解できる。すでに売れっ子作詞家であった阿久悠だが、作曲者が遠藤実だと聞いて「恐れ多い」と感じたそうである。
その阿久悠は『スター誕生!』の審査員で、昌子を最初にグランドチャンピオンにした当事者なので、ここは確実にヒットする曲を作らなくてはならなかった。そういう意味で遠藤実とのマッチングは、たいへん意義あるものだったと言えるだろう。
「せんせい」 阿久悠:作詞 遠藤実:作曲 只野通泰:編曲 森昌子:歌
淡い初恋 消えた日は
雨がしとしと 降っていた
傘にかくれて 桟橋で
ひとり見つめて 泣いていた
おさない私が 胸こがし
慕いつづけた ひとの名は
せんせい せんせい それはせんせい
声を限りに 叫んでも
遠く離れる 連絡船
白い灯台 絵のように
雨に打たれて 浮かんでた
誰にも言えない 悲しみに
胸をいためた ひとの名は
せんせい せんせい それはせんせい
恋する心の しあわせを
そっと教えた ひとの名は
せんせい せんせい それはせんせい
この女の子が思いを寄せた「せんせい」は、おそらく、どこかの学校へ、連絡船に乗って転任していくのだろう。それを彼に知られないようにして見送りに来ている。この連絡船、具体的な地名や、場所を感じさせる言葉も書かれていないため、どこのものなのかは分からない。それは、聴く者がイメージする連絡船であれば、どこでも構わないのだろう。
(森昌子が『スター誕生!』で歌った都はるみの『なみだの連絡船』を意識したのだろうか。こちらの曲も、どこの連絡船かは歌の中には出てこないが、同名の映画では、鹿児島と桜島を結ぶ連絡船の設定になっている)
港から旅立った人を、誰にも知られずに見送りに来る人、このかなり古臭いと思われる場面設定を、13歳の女の子が、その先生に対する思いとして歌わせたところに、阿久悠のすごさがあると思う。そして、遠藤実のメロディーが、実に巧みである。
その後、『同級生』『中学三年生』とヒットを飛ばしていくが、作詞、作曲は同じコンビ、の作品。そして、いずれも編曲は、只野通泰が担当している。
只野通泰は、吉田正の作曲の作品の編曲を何曲も手がけている。但し、当初は編曲者を記載する習慣がなかったため、どこまでの曲がそうなのかをはっきりさせることはできないようである。けれども、『潮来傘』『いつでも夢を』は只野の編曲であることは間違いないそうだ。
そして、その後遠藤実と組み、上記の森昌子の曲以外に、小林旭の『純子』『ついて来るかい』『ごめんね』(いずれも作詞も遠藤実)、渥美二郎の『夢追い酒』などを手がけている。
ところで、個人的な感想だが、この曲が流行った頃、「先生」のことを、私たちは「せんせえ」と呼んでいたので、「せんせい」と、はっきり歯切れ良く歌われているのが、とても新鮮に感じられた。
「せんせえ」というのは、少しおもねたような響きを持っていて、この歌の純情さを損ねると判断したのかもわからない。
-…つづく
第485回:流行り歌に寄せて No.280 「耳をすましてごらん」〜昭和47年(1972年)7月21日リリース
|