第39回:アルバイト・アラカルト
更新日2004/11/18
またまた向田邦子さんの話で恐縮だが、彼女の第一エッセイ集『父の詫び状』のなかに、『学生アイス』という作品がある。彼女が実践女子専門学校の学生だった昭和23年頃、男子学生とカップルを組んでアイスクリームを売り歩いた、アルバイトの様子が描かれている。
サラリーマンの長女として育った彼女は、それまで人にものを売るという経験はなく、相棒の男子学生も同様で、初めのうちは売れないアイスクリームがどんどん溶けてしまい稼ぎにならなかった。ところが、あるひらめきから大いに売れるようになっていくという、例によって実にうまい筆運びで綴られた随想だが、あの向田さんが学生時代アイスクリーム売りをしていたというのが、とても微笑ましく感じられた。
それでも、ひとつの発想の転換で大繁盛の売り子になるあたりは、その後の彼女の卓越した仕事人としての活躍の発端が垣間見られるようで、さすがだなと感心したものである。
読み終わったあと、そう言えば自分は学生時代(私の場合は浪人時代)どんなアルバイトをしてきたか、を考えてみた。前からあまり多くのことはしていないと思っていたが、数えてみると、それでも十種類は超えるアルバイトは経験してきた。向田さんのような才覚で実績を残した記憶はないが、それなりの思い出は残っているようだ。
上京して初めてのアルバイトは、国電目黒駅近くの信託銀行の株券名義人変更の事務だった。上京して間もなくのことで、2週間ほどの仕事だったと思う。今考えるとずいぶん地味なアルバイトに就いたものだが、ほとんどが学生で、私が東京で初めて親しく口を利いたのは、ここの仕事仲間だった。
その後は、以前も少し書いたが、朝日新聞の新聞配達。アパートのそばの専売所に通い、2ヵ月朝夕刊を配った。とにかく昔からスローモーなたちなので、最も早く店に入っても、二百軒あまりを自転車で配り終わって帰ってくるのは、たいがいはビリだった。これはその後の「のろま人生」の発端だったのだろう。向田さんとは、あまりにも違う。
配達の仲間とは、よく酒を飲み、いろいろと語り合った。まだ十代の「若い」という、その言葉通りの時代だった。ここらあたりからあまり勉強をしなくなり親を泣かせることになるのだが、そのときの仲間のうち3人ほどは、今でも懇意につき合っていただいている。
顔吹き(がんぶき)と言って、ビルに顔料を吹き付けるアルバイトもした。一昔前のビルは表面がザラザラした顔料を吹き付けてあるところが多かった。足場を伝いながら、顔料を入れた銃のようなものでビルの表面に吹き付けていくのである。
これも以前書いたスナックで知り合った「社長」に「ちょっと手伝ってくれ」と言われた次の日、東京湾近くの現場に行くことになった。社長は午前中私の仕事ぶりを見て、「これはあかん」と判断し、午後からはマゼラーと呼ばれるミキサーで、顔料を混ぜる方の仕事に私を回した。その後もずっと混ぜる専門だった。
それでも彼は、私にとても良くしてくれた。マグロのぶつ切りが旨かった、現場近くの屋台のような食堂での昼食代や、仕事帰りのスナックでの酒代は全部彼が持ってくれて、日当は6,000円支給された。30年近く前の当時としては、かなりの厚遇だった。1ヵ月ほど続いたように思う。
埼玉県の田舎の方で、住宅地図更新のアルバイトをしたこともある。A3版ほどの大きな白っぽい地図に一軒一軒、会社名や世帯主の苗字が書かれた、役所や不動産屋さんなどで見かけるあれである。何年かに一度更新があって、仕事としては現存の地図の1ページ分のコピーを画板に乗せて、一軒一軒を訪ねて標札などを確認し、変更があれば赤を入れていくのである。
何せ田舎だったので家と家の間隔があって、歩くのは骨だったが、なかなか面白いアルバイトだった。ただ、地図に書かれた大きな病院施設の場所にはそれらしき痕跡すら見つからないことがあって、地域の人に尋ねたら「もう15年以上前から、その病院はないですよ」と言われた。15年というのは、地図の更新何回分なのだろう。何人も続いてアルバイト生が大雑把な仕事をしていることに驚いてしまった。
新宿の三越近くの喫茶店でアルバイトしたときは、店員全員がギャンブル好きだった。休憩時間はパチンコ、仕事が終わると麻雀、休みの日は競馬三昧の生活をしていた。私も麻雀だけはつきあったが、最後までカモられるだけカモられた。
仕事中もギャンブルは行われる。カウンターの中から、「今度入ってくる客は男か、女か、100円。但しオカマは分かれ」とか、有線を聞きながら、「今度の歌の曲名当て、早い方が200円」とかを延々と続けるのである。店長に隠れてボックス席で、お客さんとこっそり厚い電話帳をめくっては、そのページ数によるオイチョカブに興じていた店員もいた。
その後、社会福祉の定職に就いてからも、あまりの薄給で一度だけアルバイトをしたことがある。渋谷の道玄坂近くのマンションの一室。学習教材の訪問販売のアポイントを取る仕事だった。渡された名簿は、どういうルートで入手したのか都内某区の中学2年生の子供を持つ世帯の住所と電話番号、親子の氏名などが列記してあるコピーだった。
その一軒一軒に電話をかけ、「お宅に中学2年生のお子さんがいらっしゃいますね。私どもは来年度に受験を控えた生徒さんに画期的な…」と話し、訪問(訪問者は別の人)に行っていいかとアポイントを取るのである。部屋には私ひとり、淡々とかけ続けるのだ。私にはこのアルバイトは全くなじめなく50軒ほどで頓挫してしまった。
そして、アポを取ったところまでにチェック印を入れ、「申し訳ございません。私にはできません」と書き置きしてマンションの部屋を後にした。今考えるととても不思議なのは、「あなたは、どうしてうちに中2の子供がいるのが分かったのですか」と聞き返されたのが、50人を超えるケースの中で、たった一件だったことだ。
こんなふうに書くことによって、私がいかに仕事のできない人間であるか、改めて確認することになってしまった。今の仕事も、相変わらずスローモーで、先輩の同業者の方に、「まどろっこしくなっちゃうよ」とよく言われる。私としては、少しでも手早くなろうと日々奮闘努力を続けているつもりだがその甲斐もなく、人にはまったくそうは見えないらしい。困ったことである。
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