第883回:抜きん出た女性たち その2
女性の旅行家で、何といっても第一に挙げなければならないのは“イザベラ・バード”(Isabella Bird;1831-1904)でしょう。彼女は日本にも関係が深く、北日本、東北、北海道を1878年(明治11年)に旅し、同じ年の秋から冬にかけて関西を歩いています。
その記録を“Unbeaten Tracks in Japan”(『誰も歩まなかった日本の道』)という本を書き、当時の日本の普通の人の、庶民と云って良いのかしら、生活を生き生きと描写し、私たちに残してくれました。
歴史は主に、政治、権力者が主体になって書かれていますから、案外、その当時の人たちの、普段の生活を知るのは難しいのですが、イザベラ・バードは一西欧人の女性という制限、フィルターを通してですが、当時の様子を記録してくれたのです。
イザベラ・バードは、イギリス、ヨークシャーの田舎町の牧師の娘として生まれ、育った。しかし、彼女の父親、エドワードは単なる田舎牧師ではなく、ケンブリッジを出た後、ロンドンで法律を学び、インド、カルカッタの最高裁の弁護士にまでなっています。その地で妻子を亡くし、本人も病弱な体質だったようで、インドで生活することを諦め、イギリスに戻り、英国国教会の牧師になっています。そしてそこで再婚しました。
母親のドーラは教区の町、ボロブリッジの名家ローソン家の娘で、彼女の家系からロンドンの市長がいたくらいですから、階級社会が厳然として残っていた当時、かなりの教養を身につけた女性だったようです。イザベラの少女時代の教育は母親、ドーラが担っていたと言われています。道理でロクに学校にも行っていない女の子があれ程優れた旅行記を大量に書けたわけです。
イザベラ・バードを触発したのは一冊の本でした。ジョン・フランシス・キャンベル(John Francis Campbell)が書いた“My Circular Notes”(『私的な周遊記録』)を読み、イザベラ・バードは私も未知の世界を旅したいと夢を抱き、実現に向けて歩み始めたのです。
ジョン・フランシスの本が出たのは1876年で、イザベラ・バードが日本に行ったのが1878年ですから、彼女は案外燃えやすい性格だったのかもしれません。しかし、『私的な周遊記録』を読んですぐにジョン・キャンベルを訪ね、日本政府のお雇い外人だったコリン・アレキサンダー・マックヴェインを紹介してもらい、何度もコリンの元に押しかけ、日本の情報を集めています。イザベラ・バードは瞬間湯沸かし器ではなく、事前に、当時として可能な限り、最大限に日本の実情を掴んでいたと思われます。
彼女は体が弱く、主治医もそんな長期旅行、ましてや未開地への旅をやめるよう忠告したようですが、彼女の情熱が病弱な体を上回っていたのでしょう、日本に向けて出発したのでした。
イザベラ・バードの本はすべてと言って良いと思いますが、日本語に翻訳されています。また、日本でイザベラ・バードの研究をしている学者や学生さんがたくさんいます。確かに彼女の作品、旅行記は研究する歴史的価値があると思います。彼女の観察力と表現力を認めた上でのことですが、日本での研究、興味の対象が彼女の日本紀行に偏り、朝鮮の紀行は翻訳され読まれているようですが、彼女が訪れた他の国々の記録はあまり取り上げられていないようです。
本コラム第879回『他人の目、外国人の目』で書きましたが、どうも日本人は外国人、西欧人が自分たちをどう観ていたかを気にする傾向が強いようで、イザベラ・バードが明治11年に旅行し、何を観、どう感じたかばかりが先に立っているように思えます。
と言っておきながら、私自身、ロッキー山脈の東側、ロングモントに住んでいた時、そこから毎日ロングスピークを眺め、ロッキーの女王とでも呼んだらいいのかしら、その厳とした山に憧れていました。そしてロングスピークに関係した本を読み漁っていたところ、イザベラ・バードの『ロッキー山脈における女性の生活』と『ロッキー山脈走破』を読み、あんなスカートを穿き、頭の高さ以上もある、おそらく2メートルはある木の棒をハイキング・ストック、ポールとして持ち歩いていて、ロングスピークを登ったんだ、私にだって登頂できないわけがないと、二度挑戦しましたが、いずれも失敗、そこから岩場に取り付くところで引き返したのでした。
イザベラ・バードおばさん(イヤその時はお婆さんになっていたかな)は、どうしてなかなかやるのです。大変な体力、健脚の持ち主だったようです。人間、自分に関係したこと、身近にあるモノに興味をひかれるのは自然なことなんでしょうね。その自分の範囲をどこまで広げることができるかが個人個人の資質、人格の大きさに関わってくるものなのでしょう。
イザベラ・バードは、本人もそう言っているように、名所、旧跡、西欧人がよく訪れるような観光地はハナから除外しています。日光へは行っていますが…。東北、北海道の旧街道を歩き、田園風景の美しさに打たれています。そして、「世界中で日本ほど女性が安全に旅できる国はありません」と、嬉しいことを言っています。現在でも、他の国々が酷すぎるせいもありますが、日本は最も安全な国の筆頭でしょうね。
しかしながら、日本人の風体について、率直というか酷評しています。「肌は黄ばみ、髪は馬のたてがみのように硬く、平、窪んでいさえする胸、ガニ股、平べったい鼻」などと羅列し、人類の退化した姿がある…とさえ書いています。アイヌについても「不潔の極み」と切り捨てています。
確かにそのような見識は当たっているでしょう。まだ江戸時代を引きずっていた当時の農村、北海道の開拓部落の人たちは彼女が出会った容貌だったことでしょう。80数%が農民でしたし、腰を曲げて激しい農作業をしてきたのですから、おサムライさんのように背筋をスッキリと伸ばした姿勢とは縁遠いものだったのでしょう。
以前、イギリスの階級社会の本を読んでいて、第二次世界大戦前まで、中産クラス以上と下層階級とに身長差が歴然とあると知り驚いたことがあります。身長だけでなく、スポーツで鍛えた体格差も、遠くから歩いてくる姿、歩き方を観ただけで、炭鉱労働者か中産階級以上、貴族かが分かるというのです。
イザベラ・バードさん、足を踏み入れ記録を残してくれた国、地域はオーストラリア、ハワイ、ロッキー連山、日本、朝鮮、中国、ベトナム、シンガポール、インド、マレーシア、トルコ、モロッコ、チベットと、まさに世界中を股にかけて歩き回っていますが、自分の国イギリスの、悲惨な炭鉱町やロンドンのスラムまでは目を向けていません。
それは、ないモノねだりにしかなりませんが…。

イザベラ・ルーシー・バード
(Isabella Lucy Bird;1831-1904)
第884回:抜きん出た女性たち その3
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