第33回:強制収容に抵抗した日系人たち

日系人の強制収容所“アマチ”
ルーズベルトが施行した日本人のみを対象にした強制収容法案9066に従わなかった日系人がいたことを知り、微かに安堵する。日系人のすべてが国権に素直に従う羊ではなかったのだ。
口火を切ったのはシアトル在住のメリー・アサバ・ヴェンツーラという日系女性二世で、法令9066は基本的人権に悖(もと)るものであり、合衆国憲法に叛(そむ)くものだと告訴したのだ。1942年の4月13日のことだ。今から見ると全く当たり前、当然すぎて論評するのも憚られるくらいのものだが、当時、太平洋戦争勃発時に表立って政府を相手に日系人(アメリカ国籍)が権利を主張するには、とてつもない勇気と知性が必要だったに違いない。
法令9066はアメリカが大らかに謳う基本的な人権を守る基本に叛くものであったにしろ、戦時体制の下での告訴には目を洗われる思いがする。 それは告訴というより嘆願書に近いものではあったが、それをシアトルの高等裁判所は正面から受け止め、取り上げ、メリー・アサバさんの告訴を公式に却下している。法令9066は悪法だったが、それに抵抗し、法廷闘争に持ち込んだ日系人の訴えを、高等裁判所で正面から扱っているのだ。悪法であろうが一旦決まった法は守らなければならないとでも、判事は判断したのだろうか。こんな訴訟は、戦時下の日本、ドイツなら不可能であっただろう。
日系人の抵抗は、ブラックパンサーのように武力闘争を目論んでいたわけではない。かと言って、ガンジーが展開したような徹底した無抵抗、不服従の抵抗でもなく、強制的な収容所送りは彼らが一員として暮らしていたアメリカ合衆国建国の本質に反するものであり、法令9066は憲法に違反するという、あくまで法廷闘争だった。合法的闘争しか目論んでいなかったゴードン・ヒラバヤシ、ミノル・ヤスイ、フレッド・コレマツ、そしてミスヤ・エンドウらは戦時下の合衆国でトラブルメーカー、危険分子として逮捕され、犯罪者としてサンタ・アニータ拘置所に収容されている。
ほとんど同時期に、ロスアンジェルスに住むアーネストとトキ・ワカバヤシ夫妻(日系二世)はACLU(American Civil Liberties Union;アメリカ自由人権協会)の弁護士Wirinを通して強制収容に抵抗した。アーネスト・ワカバヤシは第一次世界大戦に米軍兵士として参戦した退役軍人だった。合衆国軍人として戦役に就いた者でも例外は許されず、日系人というだけで収容所送りになったのだ。
リンカーン・カナイはハワイ出身の二世で、サンフランシスコのYMCAの委員長を務めており、地元の信望も篤かった。彼は強制収容に応じず、地元の若者に法令9066がいかに錯誤に満ちた法令であるかを説き、結果、反政府扇動をしたという罪でFBIに逮捕された。カナイはサンフランシスコの高等裁判所で言論の自由を保障した公安503号を縦に法廷闘争を繰り広げようとしたが、彼の嘆願は戦時下のジャパニーズ・バッシングの前では虚しかった。カナイに禁錮6ヵ月の実刑が下った。
このように抵抗した日系人は相当数に及ぶが、すべて個々の法廷闘争、不服従闘争であり、全米散らばる日系人を統合する組織的なものではなかった。唯一、例外としてFPC(Heart Mountain Fair Play Committee)は大戦前から日系人グループを作っており、強制収容が始まった時、組織として法廷に持ち込んだが、すべて虚しかった。
単に、強制収容に応じず、逃げ隠れた人物もいた。サンフランシスコのコージ・クロカワは何でもこなす便利屋のような仕事をしていたが、地下に23日間隠れ住んでいた。だが、官憲に見つかり6ヵ月の実刑を食っている。彼のように強制撤去、収容に応じず隠れようとしていた日系人は実に多い。ある者は農園の物置に隠れ住み、ある者は中国人や韓国人の中に紛れ込んだ。FBIの日系人狩リはナチスドイツのユダヤ人狩りと変わらない徹底したやり方で行われた。韓国人、中国人と結婚していた日系人もいたから、自然、強制収用を逃れることができる伴侶の方へと流れ、強制収容から逃れようとした日系人も相当数に及んだ。FBIは執拗に日系人を追い、逮捕した。
大戦をアメリカで迎え、過ごした日系人のすべてが法令9066の下で次の世代に語るべき伝承を持っている。
以上は、主にブライアン・ニイヤの伝承百科(Densho Encyclopedia)によるところが大きい。
-…つづく
第34回:サンドクリーク虐殺事件 終章
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