第743回:美味しい空気
私たちが住んでいる高原台地では毎日抜けるような青空が広がっています。木々の梢も雪を被った遠くの山々の稜線もくっきりと浮き上がるように見えます。朝、凍てついた空気の中、コーヒーのマグカップで手を温めながら、向かいにある私たちが勝手に私の亡くなった叔母の名前を付けた“ベティーの山”に朝日が当たりはじめ、橙色に染まっていくのを眺めるのは至福の時です。
週に一度、谷間の町に下りて、スーパーでの食料の買い出し、図書館でインターネットを使い、本とDVDの映画を借り出すのが習慣になっています。このコラムもその時に送っています。谷に降りる時、国立公園の七十七曲がり(ホントウは十曲がりくらいですが)で急な斜面を降ります。
いよいよ急勾配の道に差し掛かる時、コロラド川とガニソン川が作った広い谷を見下ろすことになります。そんな時、谷間全体が白い霧のような雲に覆われていることがママあります。これは、インヴァージョン(inversion )と呼ばれている現象で、高い山から雲海を見るのと同じ現象です。
それはそれで一種の美しさがあるのですが、最近、その現象が多くなってきている上、幻想的な白い霧、雲ではなく、どんよりとした灰色の空気が谷全体を覆い尽くしていることが多くなってきたのです。ワ~ッ、あんなに汚れた空気の町に降りなければならないんだ、あんな空気を吸わなければならないんだと、町に降りる前に暗い気持ちになってしまいます。
ニュースでも、今日の大気汚染は酷いからできるだけ表に出るな、家の中にいるように、空気洗浄機をフル回転させるようにとか、警告を出すようになったのです。
谷間の町は人口12万人ばかりの小さな町ですし、公害を出すような工場もありません。ベージュ、灰色に空気を汚しているのは車と暖房なのです。この町があるメッサ郡には排気ガス規制はありません。元々牧畜が中心だったところですから、ディーゼルエンジンのトラクターや大型トラックの排気ガスをコントロールすることなど問題外だったのでしょう。そこへもってきて、家全体を暖める暖房が一般的になってきています。それに家自体がとてつもなく大きくなってきていますから、それにつれ暖房も大掛かりになってきました。家全体を暖めるには石油、ガスのいずれにしろ、大量に燃やすことになります。
私たちは何とはなしに、きれいな空気、澄んだ青空は当たり前のことだと思ってきました。谷間の町を抜け、台地に帰ってくる時、アレッ、空の色がこんなに違うんだ、と思わずにはいられません。私たちがスーパーに買い出しに行くため片道30キロの山道を登り降りしなければならなりませんが、きれいな空気を吸うことができるところで暮らせるだけでも、その価値はあると思うのです。
私たちが住む高原台地とはスケールが全く違いますが、モンゴルの首都、ウランバートル、およそ公害とは縁のないところと思っていた町ですが、酷いことになっているようです。モンゴルと言えば、朝青龍、白鳳などのお相撲さんの国、ほとんどの人は移動式の住宅パオ、 ゲルに住み、羊、ヤギを追って暮らしているのどかな国というイメージが強すぎて、煤煙、公害とは結び付きません。モンゴルでも、都会のウランバートルに人口集中の傾向が進みました。おまけに長く厳しい冬を暖房なしに過ごすことなどできません。ウランバートルの大気汚染は、石炭を燃やす火力発電所、各家庭での石炭暖房が元凶です。
19世紀にロンドンの大気汚染で起こったことが、ウランバートルで繰り返されているのです。ロンドンでは暖房に当時安くなった石炭を使いはじめ、煙を煙突からモクモクと上げていました。原因が判っていたはずの煤煙が、またロンドンを覆ったのは1952年12月のことです。この時は、政府の発表で4,000人、その後の統計では1万人から1万2,000人が死亡しました。死なないまでも、生涯、肺に病を抱え、呼吸器系に問題が残った人が10万人を越したと見られています。これが産業革命の後、大公害を経た、いわゆる先進国のイギリスで繰り返されたのです。
ウランバートルでも、生活様式というのでしょうか、住まいが一挙に高層アパートになり、石炭暖房が主流というより、それ以外ない状態になり、一挙に空を汚してしまったのです。
とりわけ、子供たちへの影響は大きく、ウランバートルの子供は田舎の子と比べ40%しか肺が活動しておらず、肺は一度何かに犯され、壊されると、その機能が回復することがありませんから、生涯40%の肺で生活しなければなりません。未熟児の出生率も異常に高くなりました。
何年も前のことになりますが、デンヴァーで『人体の展示会』があり、覗てきました。そこに炭鉱で30年間働いていた人の肺が展示されていました。文字通り真っ黒で、これでよく生きていた…と思わせるものでした。レントゲン写真で、ウランバートルの子供たちの肺を見ると、素人目にも、はっきりと汚れているのが分かるほどです。
世界保健機構は、毎年700万の人が公害、汚れた空気のために死んでいると報告しています。それは、交通事故の死者数の5倍になります。汚れた空気は、目に見えない“死神”なのです。
いつか飛行機で乗り合わせた中国系アメリカ人の看護婦さんは、北京に住む彼女の母親に会いに行くのは一種命懸けだ、北京の町をちょっと歩くと分厚いマスクが真っ黒になる、と嘆いていました。インドでは、2019年にはっきりと大気汚染による死者は170万人に及ぶと言われています。大気汚染は、インド、中国のような大産業国だけでなく、東南アジアの国々全般に悪化し広がっています。
アメリカも他人事ではありません。「クリーンエアー法案」が可決したのは50年も前のことですが、未だにアメリカの全人口の45%が汚れた空気、基準以下の健康に害を及ぼす空気を吸って生活しているのです。このように汚れた空気が原因となり、それが引き起こす病気で6万のアメリカ人が亡くなっています。この数字は、近年の新型コロナに犯され、亡くなった人は含まれていません。専門家は元々肺疾患を持っている人、肺の活動が弱っている人は新型コロナに対して抵抗力がなく、死ぬ確立がグンと高くなると言っています。
雪を踏みしめ、森を散歩する時、ホントウに空気が美味しく感じられます。と同時に、こんな美味しい空気を味わえるのはいつまでかな…、私の甥っ子の子供たちの時代まで、この美味しい空気を残さなければならないと思うのでした。
-…つづく
第744回:死因の統計とサメ事故
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