第489回:流行り歌に寄せて No.284 「青いリンゴ」~昭和46年(1971年)8月10日リリース
※前回、郷ひろみを取り上げたため、ここはまとめて「新御三家」をご紹介した方が流れとしては良さそうなので、いつもの通り年月は前後しますが、ご容赦いただき、今回はデビューが最も早かった野口五郎について書いていきます。よろしくお願いいたします。
今回、野口五郎について調べていたら、YouTubeで衝撃的とも言える映像を観ることができた。それは、昭和42年(1967年)の「日清ちびっこのどじまん」で、当時小学6年生の佐藤靖(野口五郎の本名)少年がエレキ・ギターを奏でながら歌う、荒木一郎の『今夜は踊ろう』の映像だった。
歌も、ギターも、実に堂に入っていて、その後長い間、歌謡界で活躍を続ける歌手となる、その片鱗を充分に感じさせるものだった。
フジテレビ系の「日清ちびっこのどじまん」(昭和40年7月27日~昭和44年9月29日まで放映)は、当時子供たちのことを「ちびっこ」と呼んだ、その走りである素人参加の歌番組で、まさにちびっこたちに人気があり、私もよく観ていた。
ちょうど、この番組の放映期間内に、日清食品は「出前一丁」を出して、番組内でコマーシャルを流し、人気商品になったことはよく憶えている。
野口五郎は、この番組のチャンピオンになったが、残念ながら私はそれを憶えていない。素人時代にこの番組に出場してその後芸能界入りした人も多く、彼の他には、しまざき由理、天童よしみ。上沼恵美子、研ナオコ、片岡鶴太郎、西川峰子、山田隆夫、戸田恵子、大友康平など、多彩な顔ぶれである。
また、中部地方ローカルだが、CBCテレビの『どんぐり音楽会』でも、野口はザ・ワイルド・ワンズの『青空のある限り』を歌って1位になっている。
彼は、これらの歌番組に出場したのをきっかけに、歌手を目指すことを決意する。そして敬愛する作曲家の米山正夫の門下生になりたくて、米山が関わるオーディションに何回か出場し、ついに認められたため、中学2年生の時に、母とともに上京した。
そして、アルカートプロダクションの最初のタレントとして所属し、堀越高校に通いながら、歌のレッスンに励むのである。
同時期に堀越高校に通った郷ひろみと野口五郎だが、通学元が、郷がジャニーズ事務所の寮からだったのに対し、野口は最初、伯父の経営する浅草の印刷工場の一室からだった。
念願のレコード・デビューを果たした曲が、昭和46年5月1日『博多みれん』(鳳司哲夫:作詞 荒井英一:作曲 竹村次郎:編曲)という演歌だった。まだ高校生になってひと月の、童顔の男の子に歌わせヒットを狙ったが、ほとんど売れなかった。
そこで事務所は、急遽、アイドル路線に方針を変更する。この切り替えは実に早く、そして効果的だった。アイドル曲の第一人者である橋本、筒美、高田トリオに作品を任せ、『博多みれん』のわずか3ヵ月後に、『青いリンゴ』を発表したのだ。
もし、もう1曲演歌を出し続けていたら、新御三家という言葉も生まれていなかったに違いない。
「青いリンゴ」 橋本淳:作詞 筒美京平:作曲 高田弘:編曲 野口五郎:歌
心 こころをしばりあい
二人 ふたりで傷ついた
あれは あれは恋のおわり
涙の 初恋か
青いリンゴを 抱きしめても
思い出さえ 帰らない
涙 なみだの海に いま
ぼくは 深く 沈もう
濡れた ぬれたまつげの君
踊る 夢の中でおどる
甘い あまいくちづけさえ
二人は 知らないで
青いリンゴを 抱きしめても
思い出さえ 帰らない
星も ほしも見えない いま
君は どこに 眠るの
青いリンゴを 抱きしめても
思い出さえ 帰らない
涙 なみだの海に いま
ぼくは 深く 沈もう
当時、私はラジオの深夜放送をよく聴いていたが、こん『青いリンゴ』が発売された時のCMを繰り返し聞いた記憶がある。その時のコピーを憶えていれば良いのだが、忘れてしまっている。
とにかく、南沙織の『17歳』とともに、この曲のCMは、何度も何度も聞いたものだ。それだけ、事務所の意気込みも凄かったのだろう。
今回初めて知ったのだが、野口五郎のヒット曲の多くは、実兄の作曲家・佐藤寛が手がけたものである(大変不勉強だった)。『私鉄沿線』『女友達』『むさし野詩人』など、私の好きな野口五郎の曲を作っている。
私には男兄弟がいないので、弟の曲を作ること、兄の曲を歌うこと、それ自体が全くイメージできないが…。
-…つづく
第490回:流行り歌に寄せて No.285 「恋する季節」~昭和47年(1972年)3月25日リリース
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