第38回:ベア川の虐殺 その2
当初、モルモン教徒は全般的にインディアンと協調する立場をとっていた。だが、それも自分の所有地にインディアン、この場合、ショーショーニー族が入り込み、獲物を捕獲するだけでなく、大切な牛馬を盗むことが重なると、インディアンと和睦することなど夢物語だと気づき始めた。インディアンに同情的なモルモン教徒たちも、次第にアメリカ軍・騎兵隊のインディアン討伐サイドに回るようになっていった。
一方、インディアンの方にしてみれば、罠師、山師、バッファローを皆殺しにするハンターも、入植したモルモン教徒たちも同じ白人だ、自分たちの猟場に入ってきた侵入者だと思ったとしても自然なことだ。
アメリカ軍はモンタナの金鉱とソルトレイクシティーを結ぶ街道の安全を何としても確保しなければならなかった。南北戦争の費用をそこから産出される金で賄う必要があったのだろう。金を確保するために邪魔になるインディアンどもは討伐すべき対象だった。
ショーショーニー族撲滅戦にも開戦の理由付けが必要だった。そんなこじつけた理由がなくても、ショーショーニー族は討伐される運命にあったと思うのだが…。そのショーショーニー族撲滅戦のこじつけは、8人の金鉱山師が道に迷い、キャッシュ谷のショーショーニー族の部落“冬の部落”に入り込んでしまい、うち3人は川を泳いで渡ったが、残りの山師たちはショーショーニー族に襲われ、金鉱山師のジョン・ヘンリー・スミスと馬数頭が殺された事件だった。
他の金鉱山師たちは命辛々ソルトレイクシティーに辿り着き、裁判所に訴えたのだ。それを受けた判事ジョン・F・キニーは、当然と言えばあまりに当たり前のことだが、ショーショーニー族の証人など全くなしで、酋長のベアーハンター及び部族員のナヴィッチとサグイッチの逮捕令状を出したのだった。もっとも、軍・騎兵隊にとってそんなお墨付き令状など必要なかっただろう。しかしながら、この逮捕令状が世論を大いにバックアップしたことは確かだ。
ダグラス砦からサミュエル・ホワイト大佐が指揮する歩兵隊80名が、15門の野戦砲を曳き出発したのは1863年の1月22日だった。引き続き、コーナー大佐率いる220名の騎兵隊員に各々に40発のライフルの弾、そして30発の拳銃の弾を持たせ1月25日にダグラス砦を出ている。と言うことは、逮捕令状の出ている3名のショーショーニー族を捕まえるためではなく、はじめからキャッシュ谷にいるショーショーニー族撲滅を目指していたことになる。
そして、サンドクリークの虐殺に関わった義勇軍が食い詰め者やならず者が多かったのと同様、カリフォルニアで募兵したこの義勇軍も、金鉱探しに失敗した者、かといって地を這うような開拓もできないあぶれ者集団だった。
マックギャリー少佐が率いるカルフォルニア第一部隊がベア川を見下ろす土手の高台に到着したのは1月28日だった。その年のユタ州北部は豪雪と厳寒に襲われていた。氷点下25度C以下まで下がっていたと思われる。しかも、馬の腹を擦るくらいの積雪があった。
開戦前に軍人以外の一般の白人の目撃談が残されている。キャッシュ谷に入植し、開墾と同時にショーショーニー族と毛皮などの交易もしていたウイリアム・ハルという男で、彼が9ブッシェル(Bushel;約300キロ)の小麦をショーショーニ-
族に渡すため谷に来ていた。ウイリアム・ハルはショーショーニー族を援助していた。小麦を引き取りに来たインディアンに、ハルは騎兵隊の大部隊が接近しているから急いで部落に帰り、部族の者に連絡した方が良いと伝言し別れている。
ショーショーニー族は3頭の馬を駆って部落を目指したが、余程焦っていたのか、深い雪に馬が脚を取られるに業を煮やしたのか、小麦の袋を落とすか、投げ出している。この小麦の袋を後にカリフォルニアの第三義勇軍が発見している。
このように、インディアンサイドに身を置く白人入植者、罠師、交易を生業とした者がいたことにいくばくかの安堵を覚える。
豪雪で馬に引かせて持ってきた野戦砲を持ち込むことができなくなったことは、多少インディアンに有利に働いた。また、ハルがインディアンに騎兵隊襲来の警告を事前に発したので、ショーショーニー族は防御前線を構える時間があった。騎兵隊が目論んでいた坂落としの急襲にはならなかった。
ベアーハンター酋長は川沿いに塹壕を掘り、小枝を組み身を隠す工夫などをしている。確かに、それらの処置は対インディアンの弓を手にした戦いには有効であっただろうが、圧倒的に優れた武器、ライフル、拳銃、それに馬での移動を主にする米軍騎兵隊に対してはそれほど効果があったとは思えない。
1863年1月29日の昼過ぎに、騎兵隊は攻撃を開始した。厳寒の下、身体を温めるためと景気付けのためだろうか、ウイスキーが配られた。サンドクリークを襲撃したコロラド第三義勇軍のように泥酔するほどではなかったようだ。それに、このベア川の戦闘は一方的な虐殺に終わったにしろ、サンドクリークの虐殺のように、老人、女性、子供が多い無防備の部落を襲ったのではなかった。一応、ショーショーニー族側も戦闘準備をし、騎兵隊を迎え撃つ態勢をとっていた。
ベア川の戦い(殺戮?)にある記念碑
サンドクリークもそうだが、このような史跡はこの地点で大量虐殺が起こったという
思い入れがなければ、ただ緩やかにうねった大地が広がっているだけで何もない。
今はアメリカ合衆国の歴史史跡に指定されている。
この戦いで騎兵隊は5人の将校を含め27名が死亡し、ショーショーニー族側の死者は200名から400名という倍も違う数値が出ていて、全く確定していない。軍当局は、インディアン272名が戦死したと発表している。酋長のベアーハンターも戦死した。
その当時、現場近くに入植していたデンマークからの移民、ハンス・ヤスパーソンは493名のショーショーニー族の遺体を数えたと書いている。だが、ハンスが自伝を書いたのは1911年、事件から50年近く経ってのことだから、彼の自叙伝にどれほど信を置いて良いか判断しかねる。
たとえベア川の殺戮は戦争がもたらす常識的凄惨なものであったにしろ、騎兵隊がショーショーニー族の部落民に行なった残虐さは目に余るものがあった。女性は老若を問わず強姦、輪姦され、子供は乳飲児を含め頭を割られたり、串刺しにされ川に投げ捨てられた。
コーナー大佐とカリフォルニア義勇軍は、ベア川流域に平和をもたらしたとして、英雄視された。コーナーは大佐から少将に出世し、インディアン狩りを続けた。
エドワード・パトリック・コーナー(Patrick E. Connor)
少将に昇格した時の記念写真
-…つづく
第39回:ザッパクリークの虐殺 その1
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