第40回:ザッパクリークの虐殺 その2
ここでオースティン・ヘンリイ中尉のことを若干述べておく。
彼はアイルランドからの移民で、1840年代にアイルランドを襲った大飢饉の時、両親と共にアメリカに渡ってきた。だから、生まれたのはアイルランドだ。ヘンリイ一家はペンシルバニア州のイーストン(Easton PA)に入植した。口減らしのためかどうか17歳で陸軍に入隊している。南北戦争の終わり頃だった。想像の域を出ないが、真面目で上官の命令を忠実に果たす、良き兵隊だったのだろう。だが、3年軍にいて出世もしなかったが、ウエストポイント(陸軍士官学校)に推薦入学しているから、真面目な兵隊だったのだろう。
士官学校では、卒業時の席順を発表し、残る。一体どのように成績の良し悪しを見極め、順位をつけるのかは分からないが、世間はそれをありがたがり、尊重する。卒業生全員が卒業時の席順をゼッケン番号のように身体に付けて人生を送ることになる。現在でも、将軍クラスは士官学校をトップクラスの成績で出た者がほとんどだ。因みに、マッカーサーはウエストポイントをトップで卒業している。
オースティン・ヘンリイは1872年に57人中34番で陸軍士官学校を卒業した。目立たない、ヒラメキはないが素直な学生だったのだろう。同級生や教授たちになんの印象も残していない。ともあれ、軍隊という組織のエリートに組みされ、卒業と同時に第6奇兵隊の第二中尉として、カンサス州のヘイズ砦に配置されている。折りしも、インディアンとのレッド・リバー戦争が勃発し、ヘンリイはダッジシティーの砦にあるマイルス大佐指揮下に編入されている。その間、ヘンリイは父親を亡くし、母親が再婚し、また再婚相手がシカゴで死亡し、小さなアパートで老未亡人としてヘンリイの軍人の給与の中からの仕送りで余生を過ごすことになり、彼のこもりがちの性格は母親との関係が影を落としていると見る者がいる。アメリカ人好みの精神分析なのかもしれないが…。
すべての軍組織にありがちなことだろうが、学歴がモノをいう。学校出たての青二才エリートが50、60騎を率いる長になったのだ。実戦経験豊かな伍長、隊員らがどんな目でヘンリイを見ていたか想像に余りある。ヘンリイ自身も、大声を上げて隊員を鼓舞するタイプではなかったし、隊員の尊敬、憧憬を集めるタイプでもなかったようだ。
オースティン・ヘンリイ、第6奇兵隊 第二中尉
ウエストポイント陸軍士官学校卒業の時のものだろう。士官学校の制服を着ている
このポートレイトからも彼の真面目で気弱な性格が見て取れると思うのは、私だけだろうか…
士官学校を出てから、カンサス州、コロラド州の砦に勤務し、実戦経験もそれなりに積んだにもかかわらず、3年後、1875年4月のザッパクリーク襲撃まで、全く昇進していない。逆に、リトル・ブルの率いるシャイアン族にいつも先を越されている有様で、本部から非難されている。リトル・ブルをなんとしてでも打ち破らなければならない心境を作り出していたと言っていいだろう。
リトル・ブル率いるシャイアン族に一体何の罪があって、討伐されなければならなかったのか、具体的には無断でインディアン居留地区を離れ、入植者を襲い、殺し、牛や馬を奪ったという容疑だった。しかし、それもリトル・ブルのグループが実行したという確証は何もない。最大の理由、こじつけは、シャイアン族がジャーマン家の大人5人を殺し、娘を4人捕虜に取ったことへの復讐だ。リトル・ブルもシャイアン族だから同罪だとしたのだろう。しかし、それもおかしいところがある。娘たちはすでにフランク・D・ボールドウイン中尉によって救出されていたのだから、ヘンリイがリトル・ブルを追い詰め殺戮する理由にはならない。あるとすれば、彼の名誉欲と最終的な復讐を果たすことしかない。
ジャーマン家族の二人娘、救出釈放直後だと思われる
17歳のキャサリーン(上写真)と12歳の次女ソフィア(下写真)
この二人は下の娘アデライダ、ジュリアとは別の部族に
拘束されていたのか、数ヵ月遅れて釈放された
4人娘はすでに取り戻しているのだから、ヘンリイはジャーマン家の大人5人を殺したとされているリトル・ブルへの復讐は意味がない。ただ単に、リトル・ブルに対するヘンリイの個人的な執念だけがシャイアン・クリークの虐殺に駆り立てた。
リトル・ブルが率いる北部シャイアン族はもう影すら見えないバッファローを求め北上し、ワイオミング州に向かっていた。もちろん、自分が追われているなどと想像もしていなかった。悲劇の舞台になったザッパクリークは、カンサス州の北西のコーナー、ローリンズ(Rawlins County)郡にある。北と中央そして南ザッパクリークの3本がうねりにうねって合流し一本になる。その中央ザッパクリークがUの字をなし、北西に降り、Uの字の真ん中が半島を形作っている。そこにリトル・ブルはキャンプしていた。
未だに何人のシャイアン族がそのキャンプにいたのか判明していないのだが、戦士60人、女子供を合わせ200人ほどだったと想像される。ティーピィー(インディアン式のテント)が12戸建てられていたことだけは確かだ。
この地域は灌木が生えた大地で、現在、クリークの水は干上がっている。ヘンリイの部隊は泥に馬の脚を取られたように書いているが、そんな名残もない。第一、戦闘、殺戮が起こった地点すら判らなかった。もちろん、記念碑のようなものは何もない。
西隣りに流れているはずの大きなリパブリッククリークにはダムを造り、立派な州立のキャンプ場があると、古いキャンプ場、アウトドア・ガイドブックにあるが、今年(2023年)の4月に訪れた時にはダムは干上がっており、立派なコンクリートのボートランプが虚しく湖底近くまで緩やかな斜面を形作っているだけだった。
キャンプ場は広大なもので、200、300もある大型キャンピングカー用のサイトに電気まで配線されていた。小型の野外コンサートホールか公演会場まで持つ豪華なものだった。だが、クリークが枯れ、人造湖に水がなくなると同時に、州もキャンプ場を閉鎖し、ゴーストタウン化したのだろう。広々としたキャンプサイトを独占できる喜びはあったが、不気味だった。
現在住んでいるコロラド州もそうだが、カンサス州を中心にどこへ行ってもインディアンの足跡、集落や狩猟キャンプ地、白人との戦闘があった場所だらけだ。このザッパクリーク規模の戦闘、虐殺はそこここで起こっていた。
-…つづく
第41回:ザッパクリークの虐殺 その3
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