第493回:流行り歌に寄せて No.288「おまえに」~昭和47年(1972年)10月1日リリース
テレビの歌番組では、昔の曲が歌われる場合、タイトルとともにその曲が発表された年が映し出されるのが一般的である。その中の珍しいケースとして、今回の『おまえに』に関しては、いつも(昭和41、47、52年)と複数年表記されているのである。
その理由は、最初にシングル・レコードが出されたのが昭和41年(1966年)で、この時は、A面『大阪ロマン』のB面曲として発表された。
その6年後の昭和47年、同一テイクで、今度はA面としてリリース(B面曲は『知っていたのかい』)している。
そして、今度はその5年後の昭和52年に、再録音をして(B面曲は 『妻を恋うる歌』)もう一度リリースしているのだ。
再録音盤も、女声の美しいコーラスからギターへと移っていくイントロをはじめ、オリジナルとアレンジはほとんど変わらないが、低音の魅力をより引き出したいためか、キーは半音下げて歌っている。
だいぶ以前、この曲はカラオケでよく歌われていた。当時の私のイメージとしては、ちょっとした高級スナックで、低音だけが自慢の50代のサラリーマンが、その店のママさんの顔をじっと見つめながら「そばにいてくれる だけでいい」と滔々と歌う、そんな感じのものだった。
けれども、今回、詞の内容を具に見てみると、そのような上辺の色恋ではない、もっと深い絆を持つ男女の歌であることに気付いた。そして、調べてみたところ、作曲家の吉田正が、長い間自分を支えてくれた夫人に対する、感謝の気持ちを込めて作った曲ということであった。
さらには、吉田夫妻の知己である岩谷時子が、その二人の姿から触発されて作詞したのだろうとも言われているそうだ。まったくいい加減なイメージを抱いていたことを、反省しなくてはならない。
この曲は、昭和47年にA面に移して発売してからも、最初はあまり売れていなかったようだ。しかし、吉田のこの曲に対する深い思い入れもあり、フランクの自身のコンサートや、NHK紅白歌合戦(昭和49、52年、56年と、あまり間隔を置かずに3回)で歌い続け、有線放送の普及やカラオケ人気に乗って、徐々に売れていき、そして、ついにはフランクの集大成と呼ばれるほどの名曲になった。
「おまえに」 岩谷時子:作詞 吉田正:作・編曲 フランク永井:歌
そばにいてくれる だけでいい
黙っていても いいんだよ
僕のほころび ぬえるのは
おなじ心の 傷を持つ
おまえのほかに だれもない
そばにいてくれる だけでいい
そばにいてくれる だけでいい
泣きたい時も ここで泣け
涙をふくのは 僕だから
おなじ喜び 知るものは
おまえのほかに だれもない
そばにいてくれる だけでいい
そばにいてくれる だけでいい
約束をした あの日から
遠くここまで 来た二人
おなじ調べを 唄うのは
おまえのほかに だれもない
そばにいてくれる だけでいい
フランク永井は、昭和32年(1957年)の第8回NHK紅白歌合戦 に『東京午前三時』で、初出場して以来、昭和57年の第33回まで、26回連続出場を果たした、紅白の常連組であった。
ところが、翌年の昭和58年、初出場以来初めての落選という憂き目に逢う。確かに、この頃は大きなヒット曲を持っていなかった。さらに、昭和46年〈第22回〉以降最後の出場まで、昭和55年〈第31回〉の『恋はお洒落に』を除き、紅白では、その年に発売された曲ではなく、すべて以前のフランクのヒット曲を歌唱していた。
この出来事は、フランクにとって、かなり大きなショックになったようだ。これを機に、彼の人生が暗転してしまったというのは言い過ぎだろうか。
これから3年足らず後の昭和60年10月に、彼は自宅で首吊り自殺を図る。幸い夫人の、早い時期での発見で一命は取り止めるが、その影響で脳の障害など、後遺症に苦しむことになる。
一時は恢復し、復帰できる兆しもあったが、再び悪化してしまい、復帰の望みも断たれた。
前述の吉田夫妻に負けないほど仲の良い、四半世紀連れ添った夫人も、フランクの介護、そして親族との財産に関するトラブルでうつ病を患い、平成3年(1991年)にはガス自殺を図ってしまった。こちらも一命は取り止めたものの、家事をするにはおぼつかない健康状態になったという。
そして、翌平成4年に、二人は離婚をしている。『おまえに』『妻を恋うる歌』)を再録音してから20年後のことだった。
『おまえに』は、ずっとそばに、その人がいてくれている幸せを歌い、『妻を恋うる歌』では、亡くなってしまった妻への思いを歌っていた。フランク永井は、そのどちらにも当てはまらない、生き別れという道を選んだのだった。
第494回:流行り歌に寄せて No.289「ひなげしの花」~昭和47年(1972年)11月25日リリース
|