第44回:ウンデッドニーの虐殺 その2
前回、『ウンデッドニーの虐殺 その1』の書き出しで大きな間違いを犯してしまった。どうにも歳を食い、若かりし頃への思い入れが硬化した脳に占める割合が多くなると、事実とは全くかけ離れた妄想に固執するようになるのだろうか、ウンデッドニーの占拠事件、俗に二度目のウンデッドニー事件は1973年2月27日に起こった。前回の第43回で1968年と書いてしまったけど、それは間違いです。謹んでお詫びし、訂正します。ごめんなさい。
言い訳だが、マーロン・ブランドが映画『ゴッド・ファーザー』でアカデミー賞を授賞したのだが、ウンデッドニーの占拠を支援し、インディアン政策に抗議するため、授賞式に彼の代理としてインディアンの女性を送り注目を集めた。その『ゴッド・ファーザー』をロンドンで観た年を混同していたのだ。しかも、それをロンドンで一緒に観に行ったのがぞっこんに惚れ込んでいたイギリス女性とだった。私にとって、まさに記念碑的な出来事なのに、5年もの違いは酷い。マー、老人にとって若年の5年の違いなどは、歴史の年代のようなものになっているのだろう。
合衆国のお情け、おメグミで生きなければならないインディアンは、来世を祈願するゴーストダンス(死霊の踊り)に集った。スー族ではキッキング・ ベアという祈祷師が力をつけていた。
白人は、ゴーストダンスは白人殲滅を意図し、祈願するもので、一斉蜂起の前触れだとして恐れ、厳禁した。スー族のメディスンマン、尊敬を集めていたシッティング・ブルは策略で殺され、彼を慕っていた部族は同系の酋長であるビッグ・フットの元に走った。
シッテイング・ブル
彼はスー族の一派であるラコタ族で信奉を集めていた
だけでなく、彼の名はスー族全体に広がっていた。
インディアン局の長、ジェームス・マクラクリンはシッテイング・ブルを危険人物とみなし、
逮捕しようとしたが、シッティング・ブルは逮捕に応じず、抵抗したので、やむなくその場で射殺した。
その時反抗した14名のインディアンをも同時に殺したと弁明している。
各インディアン居留地区には警察隊が置かれていた。長、幹部は白人だったが、隊員はそれぞれの部族の者が訓練を受け警察官になっていた。部族民を警察隊員にしたのは、部族の言葉を知り、事情を素早くよく掴むことができるという理由もあるが、その部族を取り締まるには部族の民をもって行うという英仏植民地時代からの伝統に則ったやり方だろう。それは、ナチスドイツがユダヤ人の収容所内のバラックごとにユダヤ人の寮長カポを置いて収容者を監視させたことを思わせる。
スー族で固められたパイン・リッジのインディアン居留地警察隊
ライフルを持っているが、1890年の終わり頃になって、
初めて出動の時にだけライフルを持つことが許された。
このシッティング・ブル殺戮が1890年12月15日だから、ウンデッドニーの虐殺の2週間前のことだ。主柱を失ったラコタ族は厳寒の中、シャイアン川沿いにキャンプを設定していたミネコンジュー(Miniconjou;スー族の一派)の酋長であるビッグ・フットを慕い、160キロ北上し、合流した。
元々ビッグ・フットとは、実際に存在しないキングコングかゴジラのような怪物を意味する。だがこの場合、酋長であるシハ・タンカに冠された通称だ。ビッグ・フットは広い見識を持っていたようだ。インディアンがどうあがこうが、白人たちが持つ圧倒的武力には敵わないことを知っていた。だが、絶望に追い込まれたインディアンが、ゴーストダンスに集う気持ちも充分に分かっていた。彼自身もゴーストダンスを信奉していたフシがある。
ビッグ・フットは過激な戦闘的性格の持ち主ではなく、どちらかといえば、悲惨な状況の同胞を白人と折り合いをつけることで何とか存続させようとしていた、のだと思う。白人の信望もあり、白人たちに友好的な酋長とみなされていた。
ビッグ・フットの元に集まった部族は400人くらいだとみなされている。そのうち100人が戦士になりうる若者だった。ほかは女、子供、年寄りだった。ビッグ・フット自身も肺炎を病み、乗馬、歩行ができない容態で、トラボイと呼ばれる、馬の両脇から長い棒を引きずり、それに縄、キャンバスを渡した車のない担架に横たわって、食料の配給があるベネット砦に向かっていた。シッティング・ブルを失った38人のラコタ族もそれに加わっていた。
二つ以上の部族が集合するのは、居留地区を離れるのは不穏だ、首謀者を逮捕しろと、第8奇兵隊のE・V・サムナー大佐が差し向けられた。
サムナー大佐の騎兵隊がビッグ・フットに追いついたのは、ポキュパイン河岸と呼ばれている地点で、ビッグ・フットはサムナー大佐の命令に大人しく従い、居留地に引き返すことに同意している。
飢えきった部族を率いていたビッグ・フットの一団の中から、逃亡者が出始めたのだ。ビッグ・フットに若い同族を制御する権限はない。だが、白人たちはそうは取らなかった。集団を離れたインディアンは、同族を呼び集めるために走ったと取ったのだ。その間、ビッグ・フットは白旗を揚げ、従順の意思表示をしていた。これには多くの証人もいる。
そして大虐殺が起こる前日、1890年の12月28日、ビッグ・フット一行は強制的にウンデッドニー川の河畔で野営させられたのだった。そこをジェームス・フォーサイス大佐の率いる470騎、4個中隊、砲兵1個中隊が取り囲んだのだ。
ウンデッドニーの虐殺に直接手を下したのはフォーサイス隊だが、合衆国政府の体質自体がインディアン撲滅に向かっていたし、軍の上層部にその意向が浸透しており、どのような形であろうが、集団殺戮が起こったと思う。
だが、きっかけはあった。フォーサイス大佐はインディアンを武装解除するため、20名ずつ弾を込めていない銃を持ってくるよう命令を下した。それらの武器、ライフル、弓などはビッグ・フットのティーピーテントに集められた。と言うことは、ビッグ・フットは武装解除に素直に応じたのだ。だが、素直に武器を差し出さない若者たちがおり、フォーサイス大佐はティーピーテント一軒一軒の家宅捜査に乗り出した。もちろん、恐怖が先に立っている騎兵隊員は女、子供がかぶっている毛布を引っ剥がすように、乱暴な捜索を繰り広げた。
アメリカ大陸の北西部の冬は猛烈に冷え込む。大陸性気候の天気なのだろう、夜と昼との気温差が激しく、また夏は猛暑、冬は厳寒になる。私たちが今住んでいるロッキーの台地では12月下旬が一番シバレる。氷点下20度まで下がる夜が続く。ウンデッドニーがあるサウスダゴタのパインリッジも非常に冷え込むところだ。
フォーサイス隊がインディアンのティーピーテントに押し入ったのは朝8時頃だった。冬至が過ぎて1週間ほどだから、朝8時と言っても夜が明け、やっと日がさし始める時刻だ。夜明けに襲うという騎兵隊の常道を踏んだのだ。インディアンたちは毛布にくるまって体温を逃さないようにしていたに違いない。その毛布を騎兵隊が引っ剥がした時、毛布の中に持っていた銃が暴発し騎兵隊員を射殺してしまったのだ。
それは全くの事故だった、とインディアン側の証人ドック・チーフは言っている。もちろん騎兵隊側は、そのインディアン、イエロー・バードは銃を隠し持ち、騎兵隊を狙い撃ちしたと証言している。
この一発の銃声が、狂気の殺戮に駆り立てた。
-…つづく
第45回:ウンデッドニーの虐殺 その3
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