第95回:イビサのアダムとイブ
ある夏の暑い盛りに、真っ黒なトーガ(toga)、踝まで届く長いガウンのようなカトリック僧衣を着込み、これも黒のツバ尽き帽子を目深に被った神父さん(サセルドーテ;sacerdote)が『カサ・デ・バンブー』に怒鳴り込んできた。まだ、洗い場のカルメンおばさんもウェイトレスのアントニアも出てくる前の開店準備をしている時だった…。
トーガ(僧衣)を着た神父さん(本文とは無関係です)
赤ら顔の真ん中にデンと居座った大きな鼻の神父さんは、まるで私を詰問するように、「カルメンはどこにいるんだ!」と、物凄い剣幕で叫んだのだ。洗い場のヒターナ(gitana;ジプシーの女性)のカルメン叔母さんのことだと思い込んでいたところ、イビセンカ(ibicenca;イビサの女性)のカルメンの方だと気がついた。
カルメンは『カサ・デ・バンブー』のあるコンパウンド(区画)にペペと一緒に住んでから久しかった。二人は結婚こそしていなかったが、その時点で3年は同棲していたし、彼らの両親もそれを認めて、しばしば彼らのアパートを訪れていた。
カルメンの叔父である、カソリックの教義に凝り固まった神父さんが何十年ぶりに移住先のアルゼンチンから帰郷し、姪っ子のカルメンが結婚せずに同棲していることを知り、大罪を犯しているとばかり、説得にやって来たのだった。
凛々と響き渡る太い声を聞きつけ、カルメンが寝ぼけマナコで降りてきて、「アラ、叔父さん! いつ帰ってきたの? ちっとも知らなかったわ…」と頬っぺたを合わせる挨拶をしているところに、パンツ一枚のペペも降りてきたのだった。
これが、神父さんに火を点けた。
「マア、お前たち、ここに座れ!」と、『カサ・デ・バンブー』のテーブルに着かせ、大声で、「お前たちのやっていることはペカード(pecado;宗教的な大罪)だ…」と始めたのだった。カルメンとペペが犯しているのは、人殺しの次くらいの大罪、悪徳で、“汝、姦淫することなかれ”に相当するようだった。
お前たちは地獄に堕ちるぞ、悔い改めよ…と、延々と2時間に及ぶ説教をオッパジメタのだ。ペペはパンツ一枚に裸足の状態で、一言も言い訳も反論もせず、神妙に聞き役に回っていた。真っ黒尽くめの僧衣を着込んだ神父さんと、パジャマ用のどうにかお尻が隠れる長めのティーシャツに素足むき出しのカルメン、パンツ一枚のペペが、海を見晴らすテーブルで相対しているのはとても奇妙な光景だった。
ナンダ、ナンダとばかりに、上の階のギュンターも腰にインド更紗を巻いただけの上半身裸の姿で偵察に降りてきて、カウンターに陣取り、神父さんの言うことに一々、茶化すように、ゴモットモと大きく頷き、目をクルリと回すのだった。
ギュンターが『カサ・デ・バンブー』に入ってきた時、神父さんが嘗め回すように鋭い視線をギュンターに送っていたことに私は気づいていた。“なんだその淫らな格好は、一体ここは何というところだ、悪徳の巣窟か…”と言っているような目つきだった。
宗教に凝り固まり、独善的な人間、特に布教者と対話は成り立たない。カルメンの叔父さんは若い時にカソリックの伝道意欲に燃え、アルゼンチンに渡り、二十数年ぶりにイビサの彼の兄、カルメンの父親のところに帰ったら、カルメンがいない。ナニッ? 結婚せずにオトコと同棲している? そんなことが許されていいはずがない…、ひとつ私が行って説教し、連れ戻してくる…と相成ったことのようだった。
そのような人間は一体、周りに目が行き届かない。小さいとはいえ、『カサ・デ・バンブー』も商売をしているのだから、一番良いテーブルを独占し、響き渡る大声で2時間も説教をしていたのでは、客足も遠のく。その上、彼が飲んだカフェー・コン・レチェ(ミルクコーヒー)の代金も払わずに憤然と席を蹴って出て行ってしまったのだ。ツケは神様に回せということだろうか?
カルメンの方が気を遣い、盛んに「ごめんなさい、ごめんなさい…」と謝り、代金を払ってくれたのだった。それからしばらくの間、ロスモリーノス界隈では、“Pecado!!”(大罪を犯しているぞ!)が流行り言葉になった。
私がペペに、「よく辛抱強く神父さんの話を聞いていたなあ~、それにしてもお前のパンツ姿、カルメンの尻が隠れるかどうかギリギリのティーシャツ姿はどうにかならなかったのか…」と言ったところ、ペペは、「ウーン、そうだな~ 素っ裸、フルチンで降りてくるべきだったかな、カルメンも素っ裸で、あの坊さんのド肝を抜き、アダムとイブが教会で結婚式をあげたと思うか? と切り返せばよかったな…」と言うのだった。
アルゼンチンの首都ブエノス・アイレス
その神父さん事件の時、私は初めてこのイビサ島から相当数の移民が南米、主にアルゼンチンに移住していることを知った。カルメンの家はイビサの基準で言えばかなりの豪農と呼んでいいと思う。それでも、農地を分割しないため、長男が家督のすべてを継ぎ、次男以下は家を出ることで自作農として食べていける限界を守っていた。
イビサが観光ブームに沸く以前、二男、三男坊は島を出て生きる道を探すほかなかったのだ。もう一人のカルメンの叔父はドイツに出稼ぎに行き、小金を貯め、車を買い、イビサに戻ってから個人タクシー業を始めた。それが丁度、観光ブームが始まる頃と重なり、夏場だけ働いて1年食える良いショーバイになったのだった。
考えるまでもなく、この平地が少なく山がちの乾燥した島で、食べていける人数は自ずと限られている。農地は長男だけが引き継ぎ、他は食を求めて島を出なければ生きていけない自然環境だったのだ。
アルゼンチンにイビサからの移民集団が作った村があり、そこでは頑固にイビセンコ(イビサ語)を話しているし、家もイビサのフィンカ(農家)そっくりそのままだということを知った。新大陸アメリカに渡ってきた移民も、アイルランド系、ポーランド系、イタリアはシチリア島系と肌寄せ合って棲む傾向がある。
ブダペストで出会ったハンガリー系のアメリカ人女学生が、彼女の生まれ育ったクリーブランドの下町は、ブダペストとそっくり同じで、パン屋、肉屋、雑貨屋の店の構えも店内も何もかも丸写しだと感動していたことを思い出した。
イビセンコもアルゼンチンの山間にイビサ村を造ったのだろう。それも時間を超越し、100年前のイビサが未だにありそうなのだ。そんなことに異常な興味を持ち、その年のオフシーズン旅行をアルゼンチンはイビサ村に行きかねない私を見て、ペペは、「お前ね~、ここだからあの説教は2時間で済んだけど、アルゼンチンまで行って、あの神父さんの説教を聴きたいのか? あんな狭いところでは、お前が何者か、悪の巣窟、反モラルの大罪の砦のようなカフェテリアをやっていることはすぐに知れ渡り、何日も教会に缶詰で説教されることになるぞ、そして追放だ…」と言うのだった。
結局、私は、アルゼンチンのイビサ村には行かなかった。漫然とどこに行っても、その土地の人に受け入れられると自惚れていたのだが、こと宗教が絡むと安穏として、そのコミュニティーに入り込み、生活することは不可能に近くなる。ただ好奇心が旺盛なだけの傍観者にならざるを得ないのだ。
イビサの島ならではの閉鎖的なところにぶつかることがママあるにしろ、仮にもヨーロッパの圏内、しかも地中海文化圏内だ。カトリシズムを脱皮した世代のイビセンコ、主にぺぺとカルメンが窓口になり、私をイビサの内部まで入り込ませてくれたのだと思う。
イビサのアダムとイブ、ペペとカルメンは、そういえば二人とも、立派な絵になる体躯の持ち主で、線の細いデューラーではなく、逞しいミケランジェロの絵に近い存在感があった。彼らに子供が生まれ、“パウ(Pau)”と名づけられた。パウの将来を考えてのことだろうか、二人は結婚した。カソリックの教会でではなく、市役所に届け出るだけの簡素な結婚式だった。
第96回:イビサ脱出組~イアン、タイク…
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