第96回:イビサ脱出組~イアン、タイク…
イビサの目抜き通りCalle mayor(カジェ・マジョール)
イアンはイビサで少数派のオーストラリア人だ。チヂレタ金髪を顔が隠れるほど伸び放題に長く伸ばし、また顔を隠した方が良いと思わせるブオトコだ。背が高いだけでなく、頑丈な体躯を持っているのだが、いかんせん猫背で、しかも肩を左右に揺って歩く癖があるので、一見、少し頭の温かい浮浪者風に見えるのだ。でも、一旦口を開くと、はにかみながら、ソフトな声で話すのだった。
イアンはゲージュツカ、絵描きで、幼児画に近い南国の風景画を遠近感を無視し、平たく描いていた。カジェ・マジョールの小さな画廊で個展を開いた時、オープニングパーティーに行ったことがある。元々シャイなイアンは、大きな体で人混みを掻き分けるように私の方に寄ってきて、「よく来てくれたね~ イヤ~、こんなもんを描いてるんだ、ゆっくりしていってくれ…」と、うわずった調子で言うのだった。狭く細長い画廊に30人ほどはいただろうか、その大半は私の顔見知り、地元の連中だった。
その後、幾日か経ってからイアンが『カサ・デ・バンブー』に来た時、個展は成功だったか、絵は売れたかと不躾な質問をしたところ、「全然だめだった、こんなモンを作ってそれでどうにか食っているんだ」と、イアンが描いた絵をプリントしたティーシャツを取り出し、私にプレゼントしてくれたのだった。それは、半円形の虹が七色に弧を描き、黒いヤシの木が2、3本斜めに黒い影を落している図柄で、下にIBIZAとある、観光客相手の土産物だった。
イビサの土産物屋さんの店頭風景
彼のデザインしたティーシャツはイビサ・ファッションのブティックではなく、絵葉書、イビサの人形、イビサの農家(フィンカ)の模型など、雑然と並べた土産物屋の店先で揺れていた。彼によれば、結構売れているし、モウカルと言ってはいたが、元々基準になる彼の経済感覚自体がどん底に近かったから、どうにか食べて、地元の安いビノ(vino;ワイン)が飲める程度のことだったろう。
同じ年の冬、マーティンのバル『タベルナ』で、イアンの個展をやったギャラリーのオーナーに会い、その後のイアンの消息を聞いて心底驚いてしまった。イアンの絵を観たアムステルダムの画廊のオーナーが、イアンの個展をアムスで開き、それが成功の足がかりになり、ロンドンでも個展を開き、おそらく今頃はニューヨークじゃないかと言うのだった。
羽ばたくという言葉はイアンに似つかわしくないが、彼は文字どおり“孵化”したのだろう。
毎年恒例となっているADLIV MODA IBIZA(アドリブ・ファッションショー)
毎年開かれる自称ユーゴスラビアの皇女? スメルジャコフが主催するアドリブ・ファッションショー(ADLIV MODA Ibiza)でその年の動向が決まり、イビサのブティックは我もわれもと流行を追う。タイクのブティックはジーンズ一本やりで、イビサの流行とは全く無縁だった。タイクは長身、痩せ型で、いかにもジーパンが似合うスタイルの持ち主のアメリカ娘だ。娘と言ってしまったが20代後半か、ひょとすると30代だったかもしれない。小柄で尻と胸が大きいセニョリータの中で、首一つ飛び抜けている後ろ姿美人だった。顔のサイズだけは小さめなのだが、ほかのすべて、目、鼻、口が大つくりで、特に大きな目とコーカソイドには珍しい反っ歯、しかも大きな口を開け、白い綺麗な歯並びを見せ、話し、笑うのだ。
一旦、彼女と面と向かって話すと、彼女の明るい、周りの人を巻き込むような笑顔に魅せられ、かなりの美形ではないかとさえ思わせる魅力があるのだ。ブティックの名前も『タイク(Tyke)』で、売るのはジーンズとジーンズの布地で作ったジャケット、上着、それにジーンズに合うベルト、アクセサリーで、あくまでジーンズ・ファッションだけだった。旧市街の市場の近くにそのジーンズ・ブティック『タイク』はあった。
ハナからファッションなどに興味がなく、センスもない私は、この夏場だけのヴァカンスの島で、しかも肌を隠すより、いかに美しく露出するかを競っているイビサ・ファッション界で、暑苦しいジーンズはないだろうと内心思っていた。
タイクのジーンズ・ブティックに入って驚いたのは、ジーンズにこんなに種類、メーカーがあったのかということだった。それに当時、私の感覚では高級、高価だと思っていたリーヴァイス、ラングラーは隅に追いやられ下級品扱いで、イタリア、フランスのトップブランドもこぞってジーンズを作っていることを知ったのだった。
タイクには黒人のボーイフレンド、パートナーがいた。これがまたドエラクかっこいい、ハンサムな男で、すぐにでもモデルになれそうな肢体の持ち主だった。彼、デイヴィッドは白人英語を静かな声で話し、どこか育ちの良さを匂わせた…と思っていた。ところが、ある日、彼がどこかヨーロッパに駐留している同郷の友達と連れ立って『カサ・デ・バンブー』にやってきた時に、まるで変身したかのように、下町黒人英語で冗談を言い合っていた。「イヤ~、今日はコイツが来たので、店番はタイクにまかせ、島巡りなんだ」と、私には白人米語で言うのだった。
旧市街にあるブティック(本文とは無関係)
タイクのジーンズ・ブティックはとてもうまくいっていた。丁度ヨーロッパでも、ジーンズが市民権を得て、カウボーイや労働者の履くものではなく、ファッションとして固定した時期だった。シーズンオフに差し掛かる秋口だったと思う。タイクとデイヴィッドが『カサ・デ・バンブー』にやってきて、「ブティックを閉めるから、あの場所を買って、カフェテリアでもやらないか? 支払いは一度に全額でなくてもよい。あなたになら5年の年賦で支払って貰ってもよい」と言い出したのだ。
と言うのは、アメリカ、カルフォルニアのサン・フェルナンドにとても良い場所を見つけたので、そこに店を移すことにした。何と言っても、イビサのような半年商売ではなく、一年中働けるし、スペインの税関とすったもんだしなくて済むからね(当時、スペインでは綿製品に対して厳しい規制を敷いており、まずは輸入の許可、割り当てを取らなければならず、しかも税率は100%だった)と、引越しはすでに決め、後はイビサの店を閉め、売るだけの状態のようだった。
タイクのブティックはいくらお金を積んでも手に入れることはできない最高のロケーションで、何をやっても人が入る滅多にない場所だった。だが、私にはとてもあの雑踏で仕事をする気にはなれなかった。ブーゲンビリアの枝が這った、海を見渡せるテラスのある『カサ・デ・バンブー』だからこそ、どうにかやってこられたのだ。
「タイク、デイヴィッド、素晴らしく美味しいハナシだけど、俺にはとても手に余る場所だし、あそこで人を使って取り仕切る能力なんかないよ…」と、断ったのだった。結局、彼らはドイツ系の不動産屋を通じてアラブ人に、私に持ちかけた価格の3倍近い値で売ったのだった。
翌年の夏だったと思う、タイクから絵葉書が届いた。
サン・フェルナンドのブティックはとても上手くいっている。イビサではとても良い時間を過ごしたけれど、あそこは所詮シゴトをするところではなく、2週間の楽しいヴァカンスを過ごすところね…」とあった。
第97回:ピノッチョとペドロ その1
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