第97回:ピノッチョとペドロ その1
スペインには相当強い“食の中華思想”があったと思う。何でもかんでも、スペインのモノ、ワインも食べ物も最高で、それも地方ごとに我が土地のモノが最高だと本気で思い込んでるのだ。少なくともフランコが生きていた時代に、他の国から食料、食品を輸入することは極めて少なかったから、先祖代々何百年に渡って食べてきたオラが土地のものが一番だという、味の頑固さが育ったのだろうか…。そうかと言って、彼らが美味いモノを求めて広く逍遥し、やはり地元の食が、オラが口に一番合っているという客観性は全くなく、徹底して他のものを受け付けなかった。
その当時、マドリッドはすでに人口200万人近くを抱える大都会だったが、まともなドイツのレスランは一軒、フレンチレストランも数軒、中華料理店に至っては下等なモノとみなされていたのだろう、ティルソ・デ・モリーナ広場地区(Plaza Tirso de Molina)の場末に、亡命キューバ人がやっている得体の知れないのが一軒あるだけで、他に何千軒とあるレストランはすべてがスペイン料理、ヴァレンシア、アストーリアス、ガリシア、アンダルシア、カタランとスペイン各地のレストランが圧倒的に幅を効かせていた。
それが、世界中の食材が入り込み、天地をひっくり返すような“嗜好の革命”(チト大げさだが…)とばかり、スペインでありとあらゆるエスニック料理が受け入れられるようになる変化は劇的と呼んでもいいくらいだった。
当初、同じ地中海なのにイタリアンレストランすらなかったと思う。スペインでは、パスタが不味く、パスタを生産しているメーカーも2社しなく、しかもレストランで開店前に大量に茹で上げ、注文を受けてから、そこから一握りの伸びきったパスタを取り、ソースを絡めて出していた…と確信しているのだが、結果、伸び切ったデロデロのパスタがデンとばかり、テーブルに出されるのだ。これはあくまでもスペイン的パスタで、イタリア料理とは無関係なのだが、スペイン人はイタリアのパスタもこんなもの、従ってイタリア料理も不味いと演繹した。
ちょっと高級なツナ入りのエンパナディージャ(empanadilla)
ピザもスペインでは同様の運命にあった。スペインには“エンパナディージャ(empanadilla)”というピザの申し子のようなモドキが売られおり、これはパン屋さんがパンの生き地をそのまま四角いバットに入れ、トマトソース、チョリソなどの地元の腸詰の薄切りなどを載せ、朝のうちに焼いたものを、四角に切って店先で売っていた。それはそれで、焼き上がりに偶然出会えば、美味しく、大いに腹の足しになる。だが、これはイタリアのピザとは全く別のものだ。
この二つ、スペイン的パスタとピザだけで、ハナからスペインのイタリア料理は大きな偏見とハンディを背負っていた。
Pizzerias Pinocho(ピノッチョ)は客が絶えない繁盛店
イビサに『ピノッチョ(Pinocho)』というピザ専門店があった。たぶん今でもあると思う。『ピノッチョ』は旧市街の目抜き通りカジェ・マジョールのちょうど真ん中にあり、夜は身動きができなるほど人出の多い場所で、テキヤやブティック、バーが軒を並べ、ロケーションは最高なのだが、凡そゆっくりモノを食べるところではない。人通りが多すぎるのだ。
若い細身の優男ペドロは20代でピザ専門店、ピッサリア『ピノッチョ』を取り仕切っていた。洗い場には顔も体もまん丸ではち切れそうなヒターナ(gitana;ジプシー)のアンヘリーナ叔母さん、ウェイトレスはペドロの恋人、愛人、後に妻、そしてペドロの子を生み母親になったカレンの三人だけで、基本的に切り回していた。真夏のピーク期間は、台所とホールにアルバイトを雇ってはいたが…。
ペドロは働き者で、仕入れ、仕込み、そしてキッチン、大きな釜、オープンの火の管理、すべ一人でやっていた。夏の暑い盛りには、ペドロは汗も出ないほど水気を抜かれ、粉だらけになって生地を捏ねていた。台所の暑さたるや想像を絶するものだったろう。大変な重労働であることが目に見えていた。
ペドロは歳若いにも拘わらず、料理に関しては伝統を重んじていた。ともかく最初の5年くらいは…。分厚く広い大理石の調理台の上で生地の小麦粉を捏ね、薪のオープンで焼くのだ。イタリアでショーのようにやっている、ピザの生地をクルクル回しながら空中に飛ばすようなことはせず、大理石の調理台の上で、長い木の棒で一枚ずつ伸ばし、型を整え、注文がきてから、お好みのチーズ、トマトソース、マッシュルーム、ソーセージ、アンチョビなどを載せ、オープンに入れるのだ。
でき上がったピザは田舎風とでもいうのだろうか、下地のパンの方は固くしっかりした焼きで、かすかな塩味があり、小さかった。直径20センチほどしかなかったと思う。トッピングの種類も少なかったし、盛大に上載せすることが流行り出す前の時代だったから、アレッ、一人前のピザがこんなに小さいの? と一見して思うだろうが、固めの下地をパリパリ齧ると香ばしさが口内に広がり、胃の中で膨れるのだろうか、それで丁度よい量になるのだった。
ペドロとカレンとは同業者のヨシミというだけでなく、シーズン中は、夜半に店を閉めてから、シーズンオフには彼らの家に行ったり、カンポ(campo;田舎、森)でバーベキューを一緒にやったりで、仲良くなった。彼らは私より一世代若かったと思う。私もよく『ピノッチョ』に行ったし、彼らも私のところによく来てくれた。
ある時、ペドロに、「あんな中世みたいに大理石の台で生地を捏ね、木を燃やす馬鹿でかいオープンを使わなくても、今日ビ、強力な撹拌機があるし、内側に耐火煉瓦を張った電気オープンがあるのではないか、それでお前の汗も搾り取られずに、少しは肉がつくぞ…」と余計なことを言ったところ、彼はそうしようと思っているんだけど、オーナーのパブロが超頑固な南イタリア人でどうしようもない…と言うのだ。その時、パブロは店を任されている雇われ店主で、純益を半々に分け、やっていることを知ったのだ。
道理でイタリア人のパブロ直伝のピザが、スペインの他のピザとかけ離れていることに納得がいったのだった。ハゲ頭で長身のパブロは、イビサに流れてきて無一文で『ピノッチョ』を始め、軌道に乗せたところで、イギリス女性のスーザンと知り合い、結婚し、彼女が異常と言えるほどの動物好き、馬好き、しかも相当な財のある家庭の出身らしく、イビサでは広い土地を所有し、数頭の馬を飼っていた。パブロもスーザンに感化されて“馬”にのめり込み、彼らの娘は馬術競技でバレアレス諸島で何位だかになっていた。
意外にもイビサのビーチでは乗馬ツアーが人気
イビサのような避暑地、ビーチで日光浴し、酔っ払うための島で、乗馬ツアー、乗馬クラブはナイだろうと思っていたところ、スーザンはイギリスの馬好き仲間との繋がりから、乗馬ツアーなるものを始めた。これが馬鹿に当たった。波打ち際を馬に乗って歩くのがファッショナブルだったのだろうか、私も一度だけ、彼女の乗馬ツアーで馬に乗ったことがある。
大きなダンプトラックやトレーラトラックの運転席に腰を降ろすと、まず驚くのはその高さだ。そして道路に出ると、どんな高級車だろうが、スポーツカー、オープンカーをグンと目下に見え、お前たちそんな小さな車で何をチョロチョロやってるんだ、そこをドケロ! と道路を占有した心理状態になる。馬に跨った視点からも、すべての人間が小人に見えることを知った。一挙に偉くなったような気分になるのだった。
私が乗った馬は充分トレーニングされていて、7、8頭の馬は牧童が乗った先頭の尻を大人しく追うだけで、乗っている人間はただ落ちないように運ばれているだけ、お馬さんの方がルートも、停止地点も心得ている1時間ばかりのツアーだった。それで、パブロによれば、ピザを売っているよりモウカルと言うのだ。「それに何たってスーザンの好きなことだし、俺も馬と森にすっかり感化されてしまったからなぁ」と言うのだった。
第98回:ピノッチョとペドロ その2
|