第46回:ウンデッドニーの虐殺 その4
カスターはインディアンとの和平交渉など意味がない、何をモタモタやってるんだ、彼らに対しては強硬策あるのみ、撃滅あるのみだ、という姿勢を崩さなかった。その端的な例がワシタ川の襲撃で、サンドクリークで辛くも生き延び、その後も白人との和平交渉の主幹であったブラック・ケトルと彼の妻をそこで殺している。ブラック・ケトルの方はティーピーテントの上に白旗を掲げでいたし、シェリダン将軍と和平交渉中であったから、まさかシェリダンの指揮下にあるカスターが襲撃してくるとは夢にも思っていなかっただろう。ブラック・ケトルは頭の皮を剥がれ、白人どもの記念品になった。
このワシタ川の勝利は、アメリカ陸軍が対インディアン戦争で初めての完全な勝利として賞賛された。が、実情は一方的な急襲、殺戮で半数以上は女、子供だったが、カスターはそれを報告しなかった。
ワシタ川の戦い、実際には一方的な虐殺行為であったが、それ以降、居留地区を離れ、勝手にうろつくインディアンに対して、何をやっても良い、許される風潮ができ上がってきた。
リトルビッグホーンにイアンディアン、ラコタ、ダゴタのスー族、シャイアン族、アラパホ族が集まっていたのは、一斉蜂起のためではない。追い詰められたインディアンがどのように生存していくかを合議するためだった。集まったインディアンは、1,300人とも2,500人とも言われている。
それを嗅ぎ付けたカスターは勇み立った。上司であるギボン、テリー両将軍は、カスターに決して抜け駆けはしないように諫めている。彼らはインディアンの数を掴んでいたし、自軍の犠牲を少なくすることを考慮していた。一応挟み撃ち作戦を立て、それを3軍で6月26日に追行する予定でいた。
その前日6月25日に、カスターは第7騎兵隊を二つに分け、副官のマーカス・リノをハンクパパ急襲に向かわせ、カスター自身は本隊を率いて、川の東側から総攻撃をかけた。いわばギボン、テリー将軍の軍隊を無視した抜け駆けだった。副官マーカス・リノは、インディアンが絶対多数であり、士気が上がっているから、慎重にいくべきだと注言している。カスター付きの斥候も、総攻撃は避けるべきだと進言している。が、功名心に逸るカスターは聞く耳を持たなかった。
結果、カスターが率いる第7騎兵隊、225名は全滅した。一方、マーカス・リノの第7騎兵隊は敗れはしたが、逃走し、全滅を免れた。マーカス・リノはカスター隊を見捨てた卑怯者とみなされ、カスター神話の悪役になった。実際には、見栄っ張りで無能な上官カスターの下で、実践不可能な攻撃を強いられただけなのだが…。
この時、カスター直属の第7騎兵隊は全滅したが、マーカス・リノ隊の第7騎兵隊員は相当数生き延び、カスターを見殺しにした卑怯者の衣を着ながらも、ウンデッドニーを取り囲んだフォーサイス大佐隊に加わっていた。
このリトルビックホーンは、白人側、カスターが一方的に仕掛けた戦いだった。カスターはそこに集まっていたインディアン殲滅を目指していた。一方のインディアン側は、カスター及びマーカス隊の動きを正確に掴んでいた。オグララ族のクレージー・ホースはカスター隊の数があまりに少ないので、これには何かウラがあるのではないかと、かえって慎重になったほどだ。
インディアンサイドの死者は未だに確定できていないが、スー族だけで136名、負傷者は160名と分かっている。インディアンの被害、犠牲者も相当数に及んでいるのだ。カスター隊、225名は全滅した。この戦いは2時間もかからなかった。
自ら仕掛け、全滅したとはいえ、カスターの惨敗はアメリカ全土に衝撃を与えた。カスターはマスコミを大切にし、自分の部隊にジャーナリスト、カメラマンを置き、優遇していた。ベトナム戦争の時、日本のジャーナリストだけではないだろが、よくぞ世界中の報道陣を基地に常駐させるものだと感心し、また呆れたが、その走りはカスターにあった。彼は自分の死をもって、センセーショナルなニュースをマスコミに盛大に流し、インディアンへの復讐劇を演出したのかもしれない。
因みに、この戦場は『カスター戦場記念国立公園』と呼ばれていたが、1991年に合衆国議会はインディアンの要望、運動を受け、『リトルビッグホーン国立記念戦場』と改められ、現在に至っている。
第7騎兵隊の記念碑
ここにカスターの名前は刻まれていない
シャイアン族を讃える記念碑
(Marker stone on the battlefield)
カスターの第7騎兵隊が全滅し(実際には副官、マーカス・リノ隊の大半は生き残ったのだが…)、ウンデッドニーの惨劇に繋がっていく。
-…つづく
第47回:ウンデッドニーの虐殺 その5
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