第47回:ウンデッドニーの虐殺 その5
狂気の殺戮というのは、一旦殺しが始まってしまうと、途中で理性を働かせ、止めることなど不可能なものなのだろうか。血を見、血を被ると後は誰彼なく猛然と殺しまくり、最後まで突っ走る血祭りになるものなのだろうか。たとえ相手が無抵抗の女、子供であろうが、至近距離で撃ち殺すことになるのだろうか。
インディアンにすれば、白旗を揚げ、武器を放棄してからの虐殺なのだから、たまったものではない。騎兵隊が無差別殺戮に移ったと知ったインディアンの戦士たちは素手で騎兵隊に向かって行った。
病身のビッグ・フットは、騎兵隊が見境いのない惨殺を始めたことを知っただろうか。おそらく、何が起こったか知る前に処刑のように頭に1発、そして留めの数発を食らい、息絶えたのだろう。
ビッグ・フットの凍てついた死体。
今にも起き上がり「お前たち、殺戮を止めろ!」と言っているかのようだ。
このように上半身を半ば起こし、両手を肘から先を上げた状態で凍りつくほど12月29日は寒かった。
ウンデッドニーでとんでもない虐殺が繰り広げられているとの報に接し、居留地にいたスー族は救援に駆けつけている。
その中にスー族のメディスンマン、ブラック・エルクもいた。彼の記憶によると、一時スー族の方が騎兵隊を圧倒する勢いを示したが、騎兵隊の援軍が到着し(黒人兵だった)後退を余儀なくされたとある。
前述したように、この吹き曝しの大地は冷え込みが厳しい。積雪量は山岳地帯ほどでないにしろ、遮るものが全くない地吹雪が吹き荒れる。そのためだろうか、死体処理が行われたのは3日後、1891年の1月1日になってからだった。
インディアン側の死体は、その間放置されたままになっていた。その数はいつものごとく白人が主張するのと、インディアンが言うのとで大きく食い違っている。大雑把な推定で200から300人のインディアンが殺されたとみなされている。
長細い溝を掘り、そこへ屍体を投げ込むのが
白人がインディアンに行った埋葬だった。
これはナチスがユダヤ人に行った屍体処理、日本の軍隊が
中国大陸で行った穴埋め、生き埋めに酷似している。
馬車に積み込まれたインディアンの屍体。
屍体処理は軍隊の手を汚すことなく、民間人に委託された。
一体につき2ドルの処理料金を支払ったと記録にある。
当然のように、騎兵隊員が略奪し忘れた、身につけた残りのモノはその民間人の
処理班が記念として剥ぎ取った。その中にゴーストダンスのジャケットも含まれていた。
これを着ると白人のライフルの弾が貫通しないと信じられていた。
日本兵が千人針の刺子を身につけて死んで行ったように。
ウンデッドニーの虐殺事件は、アメリカが犯したインディアン対策の残虐さ、無慈悲さを象徴する事件として記憶されることになった。そして、ウンデッドニーはスー族、シャイアン族、アラパホ族だけでなく、西部インディアンの聖地になった。
ブラック・エルクはウンデッドニーで生き残り、体験をナイハルトに語ることで貴重な記録を残すことになる。その後、ブラック・エルクはバッファロー・ビルの西部大サーカス・ショーに加わり、各地を巡演して周り、スー族の恥を晒した。スー族の文化伝統を見世物として、お金を稼いだと非難されもした。だが、バッファロー・ビルのショーに出演した大勢のインディアンたちは、それがなければ飢え切っていただろう。飢え死にしていたかもしれないのだ。演出されたインディアン・ショーに出て小銭を稼いだからと言って、彼らが責められるスジのものではない。
大恐慌の時、ジョン・フォードが膨大な数のインディアンをエキストラ、スタントマンとして使い、インディアン、イコール=白人の入植者を襲う悪役のイメージを作ったと非難されたが、大恐慌下の当時、職もなく、乞食同然だったインディアンたちを映画に使うことで、どれだけ彼らの家族が救われたか分からない。今もって、インディアンたちはジョン・フォードをほとんど救世主的な人物とみなしている。彼をインディアンの悪役のイメージを作ったハリウッドの儲け主義映画監督とはとっていない。ジョン・フォード自身にどれだけインディアン救済の意図があったかどうかは全く別のことだが…。
ウンデッドニーは、南ダコタ州の南西ネブラスカ州との州境近くのオグララ・ラコタ郡のインディアン居留地内にある。多くのインディアン居留地がそうであるように、ここも、およそ農牧に適さない台地で、安普請の家、トレーラーハウスが吹き晒しの中にまばらに建っているだけだ。一番大きな建物は教会だ。
現在、ウンデッドニーの慰霊碑が丘の上に建っている。
このウンデッドニーがもう一度歴史に顔を出した。1960年の終わり頃から1970年にかけて、市民権運動が盛り上がり、ベトナム反戦運動が盛り上がって来た時、その潮流に乗るかのようにAIM(American Indian Movement;アメリカ・インディアン市民権運動、俗にRed Powerと呼ばれた)が勢いを増した。
その頂点が、オグララ・ラコタ、スー族によるウンデッドニー占拠事件だった。
-…つづく
第48回:ウンデッドニー占拠事件 その1
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