第48回:ウンデッドニー占拠事件 その1
インディアン・リザヴェーション(通称:Indian reservation;インディアン居留地、正式にはNative American Tribal Nation;アメリカ先住民族国家とでも呼ぶべきだろうか)は全米に大小取り混ぜて326ヵ所あり、総計すると、西部の一つの州、コロラド州やアイダホ州の広さになる2,270万ヘクタールに及ぶ。アメリカと日本では国土の広さそのものの感覚が違うにしろ、北海道を除く、本州、九州、四国の広さに匹敵する。
インディアン居留地は相当細かく部族ごとに分かれている、とは言っても、その部族が代々住んでいた場所ではなく、合衆国政府が条約という名の元に半ば強制的に移住させた荒地にある(ここでは直接的にBad land=悪い土地と呼んでいる)。中には東部の州、ロードアイランド州より大きなインディアン居留地があり(12ヵ所)、ナバホ族居留地(Navajo Nation Reservation)はウエスト・ヴァージニア州の大きさがある。居留地の管理、経営は限られた自治は許されているが、合衆国政府のお役所インディアン局に属する。居留地での土地の売買はできない。また、飲酒も禁じられている。だが一方、部族がオーナーになってのカジノ経営などは自治の名の下に許されている。
インディアンの血が8分の1まで流れていると、最低限の生活補償金が供給される。義務教育は元より、インディアン・カレッジと呼ばれる大学まで無料で行くことができる。そこで部族の言葉、文化、歴史を学ぶことができるにせよ、優秀な生徒は普通の州立大学、私立の大学に行く傾向がある。それらの学生への援助、奨学金などは、一般の学生、白人、ヒスパニック、黒人と同じになり、インディアン居留地出身の貧しいインディアン学生には膨大な出費になる。
ウンデッドニーのあるオグララ、ラコタ・インディアン居留地、パインリッジは、サウスダコタ州の南ネブラスカ州に隣接していることは前に書いた。オグララ・ラコタ・カレッジも田舎町カイルの郊外にある。一番大きな町はパインリッジで人口3,300人ばかりのところだ。ウンデッドニーは私のような物好きが立ち寄り、博物館とも呼べない小屋のパネルを観て、記念の土産物を買うだけのところで、一番大きな建物は教会で、その周囲にパラパラとバラックが建っているだけの村だ。一体全体何で食っているのだと思わせるような、荒地の中の集落だ。それでも、年鑑で見ると385人の人口とある。
AIM(アメリカインディアン運動)の旗
黒、黄、白、赤の4色はそれぞれ、四つの方角と
黒人、東洋人、白人、インディアンの連帯を示している
ここウンデッドニーにAIM(American Indian Movement;いわゆるレッド・パワー)が結集したのは1973年2月27日のことだ。多分にここが1890年の集団虐殺の地であったという、アメリカ人なら誰でも記憶の隅に残っている地名だという理由にもよるが、実際のきっかけはこのインディアン居留地の長、住民の直接投票で選らばれた首長リチャード・ウイルソンのリコール運動にあった。
この男、リチャード・ウイルソン(自称、オグララ・スー族)は、住民によれば合衆国政府からの援助金を懐に入れるは、ありもしない要職の給与を自分に、あるいは身内の者に分け与えるは、インディアン居留地の周囲の白人牧場主から現金を受け取り、放牧を許すは、腐敗しきった政治家だということになる。実際にそんな人物だったようだ。
当時、インディアンの女性は居留地内、外を問わず一人歩きができないほど、モラル、治安が地に落ちていた。女性の一人歩きは強姦への誘いとみなされていた。AIMによれば、64件もの未解決殺人事件が居留地で起きており、強姦などは軽犯罪で、取るに足らないことだとみなされていたようだ。おまけにリチャード・ウイルソンはヤクザのような私兵団GOONs(Guardians of Oglala Nation;オグララ国の守備隊)を持っており、反対勢力を押さえ込んでいた。それに対しOSCRO(Oglala Sioux Civil Rights Organization;オグララ・スウー族市民権協会)が住民運動を展開していたが、如何せんリチャード・ウイルソンの兵力、政治力の前では脆弱だった。
周囲の住人だけではないだろうが、アメリカ人一般に、ウンデッドニーの占拠は彼らの仲間ウチの問題だ、合衆国政府は彼らに生活保護的援助金を与え、大幅な自治すら許しているのに、彼らは、自分で選んだ首長と揉めている…ととった。当初は単なる内輪揉めだとみなしていた。BIA(Bureau of Indian Affairs;インディアン居留地を管理する合衆国政府の局)も、当然、パインリッジに事務所を持っており、局長もいたが、リチャード・ウイルソンとの癒着が激しく、居留地内の実情を全く掴んでいなかったようだ。むしろBIAは居留地の内情を知ろうともしていなかったとしか思えない。中央政府から派遣されるBIAの役人は自分の管轄内で問題がなく、その任期を終えることだけがすべてというタイプが多かった。派遣された居留地の部族の言葉を話すことができる局員は極めて少なかった。
一方、スー族のOSCRO(オグララ・スー族市民権協会)はAIM(全米インディアン運動団体)に連絡を取り、当時盛り上がりつつあったベトナム反戦運動、黒人開放市民権運動に多分に触発されて巻き起こってきたレッド・パワーの闘志の派遣を要請している。AIMはデニス・バンクス(Dennis Banks)とラッセル・ミーンズ (Russel Means)の二人を送った。彼らの戦術は巧みだった。
ラッセル・ミーンズ (Russell Means)
ラコタ・スー族の活動家、AIMのスポークスマン
パインリッジのスー族だけの問題で終わらせず、全米のインディアンとシンパに訴え掛け、また全米ネットワークのテレビ局、新聞社へ働きかけ、注目を集めることに成功している。それまで黒人の市民権運動、ベトナム戦争反対運動の陰になってレッド・パワーが注目を集めることはなかった。それが一挙にレッドパワー、ここウンデッドニーがインディアンの市民権運動のメッカになったのだ。
ここにオグララ・スー族のボス、リチャード・ウイルソンのリコール運動に端を発したパインリッジ居留地の問題がアメリカ全土に広がるレッドパワーとなり、ウンデッドニーに駆けつける他のインディアン部族が続々と現れたのだ。
ウンデッドニーはレッド・パワーの聖地になり、そこを完全にロックアウト、スタンドオフしたのだ。かつて日本で私が学生紛争時代に体験したロックアウトは、机や椅子でバリケードを築き、いかにも大学キャンパスを自治下に置き、教授連、職員を立ち入らせない方向性を持ってはいたが、電気、水道、食料の供給は受けていたし、ハッキリ言えばスタンドオフごっこだった思う。
ウンデッドニーのスタンドオフは本格的だった。塹壕を掘り、ベトナム戦争で兵役についていた経験を持ち、銃火器の扱いに長けた元軍人も多数いた。実際に発砲もしたが、それとて国が戦車のような、防壁の分厚い戦車のような機動車を配置し、戦闘ヘリコプターや戦闘機を飛ばし始めるまでのことだった。政府が派遣した軍事力の前ではオグララ・スー族のライフルはオモチャの銃だった。
道路を封鎖したのは、インディアン側が先だった。検問を設け、ウンデッドニーにスパイが入り込むのを抑えようとしたことのようだが、これは両刃の剣で、食料なども居留地に持ち込むのが難しくなった。政府軍はそれよりさらに遠くを巻くように、ウンデッドニーの周囲15マイルを完全ブロックし、外界との接触を遮断した。
両者ともこのスタンドオフが長期間に及ぶとは想像していなかったようだ。政府サイドは、DOJ(US Justice Department;米国司法省)の市民権課のハーリントン・ウッド(Harlington Wood Jr.)を全権使として、初めてオグララ・スー族がロックアウトしているウンデッドニーに入り、和平交渉に乗り出した。彼がどれだけレッド・パワー、このウンデッドニーの問題を理解していたか疑問に思う。食料、電気、水を遮断すれば、インディアンどもの烏合の衆は1週間くらいで音を上げると読んでいたのではないか。それにオグララ・スー族が要求している完全自治、アメリカ国内の領地内にあって独立国家として認めるのはハナから幻想に近い要求だった。
この聖地ウンデッドニーを“オグララ国”として完全な独立自治を要求していたのだが、合衆国政府の援助なしに食べていけない“国”の独立は絵に描いた餅だった。それでもスー族の長老フランク・フールス・クロウ(Frank Fools Crow)を代表とした小さなグループを国連に派遣し、“オグララ国”を承認するよう要請している。だが当然とはいえ、国連は“オグララ国”を国家として認めなかった。ウンデッドニーを占拠していたオグララ・スー族らは、本気でオグララ国が国連に認められ、それに従うようにアメリカ合衆国も独立を認めると思っていたのだろうか。そんな幻想を抱くほどオグララ・スー族が舞い上がっていたのだろうか。国粋主義、お国自慢に広い視野からの客観性などが入り込む余地がないのは当たり前のことだと言われれば、確かにその通りなのだが…。
しかし、この国連に掛け合うというスタンドプレーにはウンデッドニーに世界的注目を集めるという効果はあった。これで、アメリカ政府がゴリ押しで軍隊をパインリッジ居留地に送り込み、ウンデッドニーのロックアウトを潰すことが難しくなったと言えるかもしれない。
-…つづく
第49回:ウンデッドニー占拠事件 その2
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