第52回:終章
組織として軍隊は、通常の人間性を消し去るように兵隊を訓練するものなのだろうか?
そして、もし私自身が戦時中に関東軍の一兵卒として招集され、中国の普通の人、女性や子供の“試し切り”を強要されたなら、憤然と拒否するガッツもなく、上官の命令に従ったかもしれないのだ。そして、それをウジウジと悔やみ、悪夢に苛まれながら一生過ごしたかもしれないと思う。いや、逆の立場で、私自身が“試し切り”される立場だったなら、深い遺恨を残さずに殺されたとは思えない。
よく、軍の内部に身を置かない限り、軍隊内にある異常な圧力は理解し得ないと言われるが、北原泰作二等兵(※)のように体を張って抵抗した人物もいたし、ほかにも不服従を貫いた兵隊もいたのだから、軍にあっては絶対服従が至上命令であり、それに抵抗することなど不可能だったとは言い切れない部分が残る。
サンドクリークの大量虐殺の時に、上官のシヴィングトンの命令を憤然と無視し、反対したサイラス・ソウル大尉のような人物もいたのだ。(当コラム第19回、第20回、第21回参照)
サイラス・ソウル(Silas Soule)
1838–1865、26歳没
悲惨を絵に描いたような愚行、8万人の死者、戦闘ではなく餓死者、病没者を出した『インパール作戦』において、公然とこの作戦追行に反対した佐藤幸徳中将のような人物もいたのだ。佐藤中将は公然と牟多口司令官の命令を拒否したのだ。佐藤中将の命令無視は原住民への配慮というより、自分の部下を無駄に死なせたくないことが根拠だったにしろ、公然と上官の命令に反対する態度を取ったのだ。日本の軍部にもそのような人物がいたことに一種の安堵を覚える。
そして、読むたびに胸が締めつけられ、目頭が熱くなる『きけ、わだつみの声』、神風特攻隊員の中にも、「必ず死んでこい」と言う上官の命令を無視し、9回も帰還した特攻隊員、佐々木友次という青年がいたことを鴻上尚志の著書で知った。
自分とは異なる人種に対して残虐になれるのは、必ずしも軍人だけではない。関東大震災の時に東京を中心に何千人もの朝鮮人を殺したのは、一般市民、日本人、隣の叔父さん、お兄さんたちだったのだ。官憲もそんな殺害を黙認し、一人も殺人容疑で逮捕しなかった。
本来、私に夢想癖があるのだろう、インディアンの悲史や関東軍の暴虐を調べたりする時、自分が殺す立場にあったら、あるいは殺される方だったら、どうするだろうかと考えずにいられないのだ。そんな事件を客観的に覚めた目で見ることができないのだ。幸い、今まで、そんな事態に直面せずに生きてくることができたのだが、それは一種例外的な幸運に恵まれていただけだったのかもしれない。
現在、アメリカ中部の山郷で現地人、コーカソイドの連れ合いと暮らしているが、これも日米が戦後80年近く戦争をせず、どうにか友好な関係を保ってくれているからこそなし得たことだと思う。在米の知り合いのウクライナ人、ロシア人、ユダヤ人、パレスティナなどのアラブ人、そして米国内に住む黒人、インディアン、ヒスパニックと呼ばれているラテンアメリカからの移民たちは、私のようにノホホンとした生活が許される環境にはない。
今回のインディアン悲史の極一部を調べ、書いたのも、外国に身を置く自分の弱い立場と迫害され続けてきた先住インディアンの境遇をオーバーラップさせてきたからだと思う。結果、覚めた目で見る歴史家のコラムでもなく、インディアンの中に身を置き、インディアンサイドから見たモノにもならず、至って私的な感情に溺れたコラムになってしまった。
この項で『インディアンの唄が聴こえる』を終ることにします。
元々私の個人的なアメリカ西部開拓時代に対する思い入れを主体にしたコラムであり、もとよりインディアン悲史の研究ではないので、参考文献、出典は掲示しませんが、いずれも容易に手に入る本、資料を元にしました。それらの優れた、詳しい調査には、ただただ敬意を表するだけです。
-…完
※北原泰作(きたはら たいさく)_部落解放運動家、天皇に軍隊内での部落民差別を直訴
1927年1月、大日本帝国陸軍二等卒として岐阜歩兵第68連隊に入営。同年11月19日、閲兵式にて軍隊内部の部落差別の存在と待遇の改善を昭和天皇に直訴し、逮捕される(天皇直訴事件)。請願令違反で11か月間、大阪衛戍刑務所で服役した後に陸軍教化隊へ編入。<wikipediaより>
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